見出し画像

転職物語⑩ ㋬(離職していない場合)現職の会社と退職の交渉をする⑴

実はこの段が、結構重いのである。求職活動そのものより精神的な消費は大きいと私は思う。

求職活動はそんなに時間に追われることが無いから、上手く行かなければ上手く行かないで続けていればいいのだと思うが、この段階になると転職先から「いつ来るの?」的な話をされたりとか、現職の企業のルールがあったりとかで、デッドラインみたいなものが設けられてしまう。そこで、結構気を遣う事が多かったりするので、ダウンしないように注意されたい。

まあ今まで散々会社のことはネタにしていたわけで、実際昼の休憩中にカラオケに行って少し時間オーバーしたり、無意味に店内をうろついたりとか挙動不審の行動が目立っていた私である。周りから見れば明らかにイレギュラーな存在だったことは容易に推測されるところ、むしろ私自身もそういう存在となって周りから「あいつはいないほうがいい」と、退職させるような流れを作ってもらいつつ、その間に自分も強い意志を持つという謎のリーダーシップを発揮していたわけだが、いざ退職する段になると周りの人への申し訳なさが途端に募るもので、それは内部の人のみならず外部の人―つまりはお客様である―に対しても同様のことを感じるものなのである。

人は常に恩を受け続けるもの、恩をすべて返そうだなんてまず無理な話だ。どうしても受けた恩の方が大きくなるのが道理である。さすればその申し訳なさの存在は必然である。

しかし、その申し訳なさを超越するだけの強い意志がなくば、恐らく動くことはできないし、仮に動くことができてもそのような軟弱な意志では次に繋がらないだろうと私は思う。

当日、私は支店長と課長にメールをした。

「大切な話があるので、時間があるときに○○室へお願いいたします」

支店長はもう察していたが、一応自分の口から言わねばならぬと思い、重い口を開く。

「えー、この度…退職を、考えておりまして…」

私がそうボソボソ言ったときの「やっぱりか」と言わんばかりの支店長の表情、私には忘れられない。やはり何年も社会人をやっている人には、(前述した諸々の不審な行動もあったのだろうが)雰囲気か何かから何となくわかるものがあるのだろうと思った。

幸い、私は恵まれた職場にいたから、「おいてめえふざけんな!」とか言われつつ力ずくに止められたり、「無理!」と言われたりすることはなかった(厳密な言い回しをすれば、これといった引き留めも無かったので、私は企業にとって本当に要らなかった可能性も高い)。理由と希望退職日を聞いて、お仕舞いだった。想像以上に退職交渉とは呆気ないものであった。

自席に戻ってから、何故か落ち着きがなくなった。緊張が糸のようにするりするりとほどけていくのに合わせて、体から汗が滲む。そうして、「もうここの人間ではないのだ」という事実は、ふわりと浮いたような感覚―確かに支店を歩いているのに、歩いていないような感覚だった―に支配されていた。

この浮いたような感覚を、私は昔、一度感じたことがある。水泳をやめたときだった。(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?