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母の量的感覚は異常

「母は強し」という言葉が示すように、母親の戦闘力は高い。特に子どもに対しては、母性本能というものも手伝ってか戦闘力はパワーアップする。

よく言われる「母性」とは何なのだろう。少し調べてみると、一概に定義されるものではないらしい。一般には赤ちゃんとか弱いものをちゃんと育てるべく愛情を注いでお世話をするようなさまを指すような概念だ。

甲斐甲斐しく世話をする女性は、太宰治の『人間失格』に描かれているようにいくらでも例はある。頼んでもないのに布団を直したり洗濯物を畳んだりと、気が利いてるんだか余計なお世話なんだかわからないくらいせっせと働く。

ただ、成長するにつれてその面倒見の良さは鬱陶しさに変わってくる。

反抗期なんてのはそういう感情が強くなる典型的な時期であり、親を無視したり、時には乱暴な言葉を投げつけたりする。
これはあくまで臆測なのだが、親もこの反抗期の子供の気持ちは痛いほど分かっているのではあるまいか、と思う。

この母性が鬱陶しさに変わる過程は、親の見る方向と子供の見る方向とがずれる過程でもある。子供なんて親にとってはいつまでも子供だしかわいいものであってほしい――だから、面倒を見る。
でも子供にとってはそんな面倒見の良さがうざったくて仕方ないわけである。
ここに軋轢が生じるのも無理はない。

子供が十分な自立を図れるよう、きちんとしつけるのが親の仕事であるから、子供に対して親は少しずつ距離を取っていかねばならないわけだ。思春期はそのプロセスのはじまりとでもいえばいいのかもしれない。

そんな母性が思いがけない驚きを生むことがある。
とある友人の話だ。一人暮らしをしていたときに親からの仕送りが届いたが、そこにはダンボールいっぱいのじゃがいもがあったという。ゆうに100個を超えるほどで、「一人で食えるわけがない」とほとんどはおすそ分けをしたという。

ほかにもあるお母さんが、新生児検診で自分の子供の体重の増加が芳しくなかったことがあった。
「もう少しちゃんとおっぱいを飲ませてあげないとだめですよ」
と医者に言われたので、一生懸命乳を飲ませたという。その甲斐あって、次の検診では赤ちゃんはでっぷりと太ってやってきて、医者に
「太らせすぎです」
と言われた、という話を聞いたことがある。

私も実際に似たような経験があって、たしかある日いきなり(頼んでもないのに)1ダースの桃の缶詰が届いたことがあった。
まずそんなに甘いものが好きでもない私に、一人暮らしでありながら1ダースも桃の缶詰はいらないと母に抗議したところ、

「別に腐るようなものでもないだろう 文句あるのか」

と反論された。「まあそれもそうだ」ということでだらだら食べ続け、大学1年の時に届いた桃の缶詰は大学3年になってようやく完食したのである。


まあ、上記の母親の仕送りの例はいまになっては笑い話だが、思うに「母親の量的感覚はカンストしている」のではないか。
世の中には「大は小を兼ねる」なんて言葉もある。私の母親が言っていたような「別に腐るものでもないのだから…」という考えは間違っていない。
じゃがいもだってそうそう腐らないし、赤ちゃんだからどうせ大きくなるのだし、多少太ろうがまあ大した問題ではない。
そもそも、何かをもらえるだけありがたい話なわけだから、ああだこうだと文句を言うべきではないといわれればそれまでだ。

ただ、子供の視点から母のとんでもない量的感覚を見せつけられるたび、クスリと笑いたくなる瞬間があるということを指摘したいのである。
幼いころは「うっとうしい」と思って理解をしようとしなかった母性という「器の大きさ」に気づけるようになるのはこういうときだ。

年齢を重ねて、少しずつその鬱陶しさは感謝の思いに変わってくる。
大人になってからの成長の発見は、自分が子供だった頃の母親に年齢が近づいていくその日々の中で、突然ふと現れるのかもしれない。

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