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生きていることの虚無感、そりゃあるよねって話

幾分前ではあるが、三菱ケミカルの小林喜光氏の講演を聞く機会に恵まれた。
日本でもかなり有名な経営者の一人であるが、その講演で若いころにこんなことを思ったと語っていた。

「通勤電車に乗りながら、ほかの人と同じように心臓を動かしているだけだった。そのときの私の心臓の鼓動は、恐ろしく軽いものだったように感じた」

その後、小林氏は1970年代にイスラエルに留学することとなる。その時のイスラエルの研究者たちは、ラジオで当時の戦況を聞く傍ら、恐ろしいスピードで論文を書き上げ、一級品の研究成果を残していたのだという。
そのときに小林氏は衝撃を受けて、己の甘さを痛感したそうだ。


そのときちょうど読んでいた本があった。オウム真理教の信者であった高橋英利氏の「オウムからの帰還」だ。文字も大きく、2時間ほどで読むことができる。
そのうち、本格的な入信をする前の段階で、こんな一文がある。少し長いが以下に引用しよう。

周囲の環境に応じて機械的に振る舞うばかりの日々。環境の数だけ仮面を用意し、とっかえひっかえしているうちに、ほんとうの自分の顔さえわからなくなっている。自らの存在の意味を問いながら、日常生活のなかに埋没してしまって、何かを問うていたことさえ忘れつつある。そんな自分がいやでたまらなかった…(中略)…なぜ僕はこのようにしか生きられないのか。なぜ僕はこんなにも弱い存在なのか。そして、なぜこうした苦しみから解放されないのか…。
こうした問いかけの答えなど、おそらく存在しない。ほとんどの人間は、その答えが空欄のまま、空欄であることの虚しさにじっと耐えつつ自らの生を全うしていくのだと思う。あるいは、その場しのぎ的ななにか、それは仕事であったり学問であったり、あるいは恋愛であったり家族であったり、そういうものを空欄に押し込みながら生きていることもあるだろう。それらは、自らの生を全うするときには、ひょっとしたら充実した答えとなっているかもしれない。
それは僕にはわからない。だがそのころの僕は、その空欄の前でただ立ちつくすほかなかった。

この文章で言及されているような「生きていることの虚無」というか『存在の耐えられない軽さ』みたいなものを抱えるのは、非常に普遍的なことだと思う。
彼の場合、その空欄を一時的であれ埋めてくれると信じたものが、オウム真理教という宗教であったわけで、このあとから彼は本格的に入信して悪名高いPSI(Perfect Salvation Initiation)などを受けていくことになる。

先に述べた小林氏が、自分の心臓の鼓動を「軽い」と形容したことからも、『存在の耐えられない軽さ』的な感覚を得ていたことは想像に難くない。

本来であれば、そんな空白や虚ろさというのは自分で勝手に埋めてしまえばいいのだが、しかしそうもいかないのが人生の難儀なところである。
なぜかわからないが、ピンとこないもので埋められると「これでいいのか」「もっと良いものがあるのではないか」などと邪念がよぎる。

だからこそ「これだ!」というものに出会えることは、非常に稀有で幸せな出来事であって、「空虚だなあ」と感じている状態こそが非常に自然な状態でもある。
何事も答えを出してすっきりとしたいと思うのは人間の性である。煩わしいことはない方がいい。当たり前のことだ。

もっとも、注意すべきは努力をやめてしまうことである。
「人生の意味は?」という真っ白な回答欄に答えを書くための努力を怠れば、いっそう人生は空虚になって、そしてついには答えが出ていない状況に折り合いをつけて、妥協して、答えを探そうともせず死んでいくことに納得するからだ。

空白を埋めるために必死になってそれっぽい答えを書くのではなく、「そのうち埋まるだろ」と楽しく努力したほうが人生の喜びも色濃いのではないか。
その過程でぽっと夢なんかが見つかったりチャレンジをしたくなったりして、行動や決断を繰り返したとき、ふと振り返って「私の人生、こんなことやあんなことで空白が埋まってきたんだなあ、これが生きがいだったんだなあ」と気づくのではないか。

人生という試験時間は一生続くのだ。空白の前で長考につぐ長考を、中座に次ぐ中座を、努力に次ぐ努力を、繰り返してもなお、時間はあまりあるほど長いはずだ。

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