街並みへのまなざし
静岡にいる友人に会いに行った時の話である。
友人の奥さんが非常に豊かな感性を持った人で、話をさせてもらって非常に刺激を受けた。
極めて聡明な友人も奥さんの感性に惹かれて結婚を決めたほどであり、そのすごさを窺い知ることができるだろう。
友人の奥さんは長らく静岡にいたといい、大学進学を機に上京したという。地元の静岡ではほとんど変わらない街並みだったなかで、めくるめく変わり続ける東京の街並みは「生きている街」だとして、その街の躍動感にわくわくしたのだという。そして同時に、昭和の雰囲気のある建物が失われていっていることを憂いてもいると教えてくれ、私自身「街並みへのまなざし」が実に冷ややかなものだったと反省し、いろいろ考えさせられた。
生きている街並みのなかで、様々な建物は新しくなり、当然美しくなっていく。かたや変わることのない「死んでいる」街並みのなかでは見慣れた風景は少しずつ汚れていき、流れていった月日がそこにあることをそれとなく建物は私たちに教えてくれる。
昭和の匂いが失われていく現代とは、生きている街並みのなかで建物が新しくなることそのものである。
かつてはっきりとしたカタチで見えていたはずのあの頃の思い出は、街の中から失われていく。世界から思い出を思い出すきっかけを失って、思い出は心のなかにしまわれてしまって、自分だけの思い出を語ることもできないまま、いつか思い出が心の引き出しにあったことすら忘れていくのかもしれない。
新しく住むことを決めた街であれば、建物が新しくなった事実にも気づくことはないし、思い出も当然存在しない。失われたことに気づくのは、友人の奥さんのようにかなり長い期間、一つのところに居続けていたからこそでもある。
そして一つの街には、そんな思い出を持つ人と、持たない人と、そして思い出を思い出すきっかけを街から失ってなお思い出を持つ人と、ついに思い出を失った人とが、絶え間無くすれ違い続けている。私たちはその交錯を日々、二度と出会わぬ人たちと繰り返しているのに、その事実にあまりにも無関心であり続けている。
私にとっては初めて出会った静岡の街並みも、隣で車を運転する友人やその奥さんには慣れ親しんだ風景だが、果たしてその街並みには何が見えていたのか——決してのぞき見ることはできない二人の優しいまなざしを思い出しつつ、ひとりでに空想に耽った浜松の一夜であった。
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