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本嫌いが本好きになるまで②

しかしそうであっても、自己内部の世界(=不可視の世界)を完全に言語化することはできない。
だから読み進める。こうなると読んでいる最中も先が気になって仕方がない。「こいつが何を考えるのだろう」――そればかりが気になるのである。

この「遮光」はなかなか衝撃的なエンドを迎えるのだが、何にせよ初めての読後感だった。
作品を読んでいるときに、その読書という経験が自分を他の世界にでも連れて行ってくれるような感覚を覚えたのは初めてだった。

このとき、私は「本とは小さな宇宙だ」と気づいたのである。17歳のときだった。

それからは本が好きになった。
大学に入ってからも授業が終われば本を読みに図書館に篭る日々が続いた。大学になれば厚かろうが薄かろうが、とりあえず本の中の世界に入り込むまで読んでみることができるようになった。
本の中の世界に入れればこっちのものである。あとは本の中の世界に身を委ねていればそれでいいのだ。それだけで自動的に世界は完結を迎えるからである。

また、ポストモダンだなんだと言われる中ではテクスト論が幅を利かせる時代である。別に言葉の意味を越えない限りにあっては自分なりに世界を再構築してやったっていい。
本の中の世界を創り上げた作者を、いったんはないものとして扱ってもいいのだ。
さらにそこから自分なりに後日談を作ったっていいし、妄想を紡ぎあげるのも好きにすればいい。
本などの表現されたものという一つの世界の中で、自分がその中を生き、そして邪魔されない限りにおいて自分がその世界を再構築していく営みがそこにあっても、別に変なことではない。
自分の世界を持っていることこそあれ、それを外へ開いた状態にしてなおかつ思い通りに世界構築をするのは、宗教家か政治家でもなければ現実的ではない。

今でも本が嫌いで…という人は少なくないだろう。
ただ、本は素直に自分の宇宙を抱いている。そう、人間と同じなのだ。

ただ、本は言葉を発することができず、一方で自分の中にはたくさんの言葉があるという不思議なもどかしさを抱えた、言ってしまえば「悩める寡黙なひとりの人間」にすぎないのである。

本は音や表情を持たないが、誰よりもたくさんの言葉を持っている。だからこちらが胸襟を開いて本の持つ世界を、その沢山の言葉から理解すればいい。
誰にも理解されずにいるのは人間にとっても本にとっても望ましいことではない。

ひとりの「本」という、お喋りが苦手で寡黙なそいつの世界に生きてみる――そんな時間と優しさが、せわしない今の時代にあってもいい。

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