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わたしたちは鬼になれているのか

私は幼年期、水泳をしていた。
時折角材で尻を叩かれたりしながらも、ベストタイムが次から次へと出ていくのが楽しくてしばらくやっていた。

もっとも、練習をいくら積み重ねても、大会のレースの直前はいつも緊張していた。
召集所の椅子を立ち、プールの前に立ち、服を脱ぎ始める。
誰にも頼ることのできない圧倒的な孤独と、固くピンと張りつめた緊張感。
私は緊張すると下を向いてただ貧乏ゆすりをすることが多かった。
目を瞑って一つ息を吐くと、世界が彩りを増す。思い込みかもしれないが、まわりがビビッドに見えるようになるのだ。
そして、自分の中にある針のようなものを次第に鋭利にしていくイメージで集中力を研ぎ澄ませていく。
そうしてその針が目いっぱい鋭くなり、号砲が鳴って針先から水の中に入ると、その緊張感は途端に己を突き動かすエネルギーになっていく…という、そんな感じだった。良いイメージのできたレースは自分の中で良いレースになっていた記憶がある。

はて、そういった鋭い緊張感を大人になって感じているひとはどの程度いるのだろう。日々繰り返される労働の中でどれくらい緊張感を覚えているのか。緊張するときなど何かトラブルが発生したときくらいだ。

たとえるなら鬼ごっこみたいなものである。
子供のころは鬼として自分が「目的」を追い続けていたのだ。そこには当然、「如何に『目的』という名の『敵』を捕獲するのか」というような緊張感と、ある種のスリルがあった。劫略の感覚とでも言おうか、歓びがあるのだ。

今や、その関係性は逆になっている。
生きる「目的」や仕事の「目的」は、今や鬼の如く私たちを追ってくる。追われる立場にもスリルや緊張感はあれ、それは非常に危機的な感覚でストレスがかかる。

人生を生きる上で、主人公は他でもない自分である。自分をまず主軸に、そこから一体全体何が為せるか、どこへ向かうべきか、何を捕獲するべきかと、方向性が決まってくるはずだ。

我々はいつまでも、鬼のように有り続けなくてはならない。その時に思い出すべきは、かつて「鬼」として目的を追い続けていたころの自分である。

あの時の緊張感と、スリルと、歓びの中で、その小さな鬼はどんな風に世界を見つめていたのか。そこに見えた「自分だけの世界」は、何色をしていたか。

もし、白黒でわからないというのなら、当時の己が鼓舞された音楽や言葉で、あの時代に目を閉じてタイムスリップしてみればいい。目の前の世界はたちどころに彩りを取り戻すはずだ。

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