世のためではなく、ただ溜飲を下げるために
コロナコロナと世の中で騒ぎ始めて、かれこれ2年くらいが経った。
だれもが「いつかそのうちには収まるだろう」と思っていたが、結局収まることもなくいまや「ウィズコロナ」の真っただ中である。
政治家がああだこうだと「お願い」という名の命令をしてくるのにすっかりひとびとは辟易として、「またやってるよ」と呆れて聞く耳をほぼ持たなくなっている。
政治家が言行一致していないことは今に始まったことではないが、今回のコロナ禍で白日のもとにさらされた感もある。
だいぶ前だが、埼玉県では自民党の県議が大人数で会食をしたと報じられたことを受け、田村琢実議員は(要旨として)以下のように発言した。
「会食を行ったという認識はない。食事をして帰ってくださいということをご案内しただけである。外形上会食をしているように感じられることに関しては批判を真摯に受け止めたい」
ここまで言い切ることができる面の皮の厚さに当時感心したものだ。
とまあ、こんな体たらくであるから、一生懸命な政治家の「お願い」にも自然と無力感・怒りが募っていく。
そのはけ口が、インターネットのSNSやニュースのコメント欄だ。
攻撃的な言葉たちがそこにはあふれている。
確かに日本の政治家の質は総じて低いのだと思う。
先日「現代の政治家は世の中を本気で変えようとする政治家というよりは、政治屋さんなんだ」ということを言っている人がいた。
毎日の食い扶持をどうにかするために、政治家という名の「サラリーマン」をやっているに過ぎない。世界の変革、日本をよくする意志などはそこにはない、という話だ。
そうした旧態依然とした世界に対する問題意識は誰しもが持っている。
世の中はより便利になっていくべきだ
快適な生活を送れるようにするべきだ
不条理な死を一つでも減らすべきだ
目の前の現実にある苦しみを一つでも取り除くべきだ
楽しいことがたくさん増えるべきだ
――こうした意見に異論はないだろう。
では、そういう希望を実現できるような、いわばそれに見合った行為を私たちはしているのか。努力をしているのか。
先に述べたように政治家は別に日本をよくするために働いているわけでもないのだから「政治家が無能だ」と嘆いても仕方ない。
むしろそれは正解だ。
だからこそ自らの手で頭を使って、どうにか変革をしていかないといけない。
国が何とかしてくれる、守ってくれると頼りにする発想自体が間違っている。
それはこのコロナ禍で、政治家の「お願い」により生活を粉々に破壊されて苦しみ続ける人たちの悲鳴を聞けば、十二分に理解できることではあるまいか。
私は、インターネット上のいろいろな攻撃的な言葉に、そうした社会を変革するだけの力があるようには残念ながら思えない。
自分の置かれた現状をすべて政治家のせいにして、世の中のせいにして、自分ではどうにもならないとあきらめきった言葉たちが転がっている。
となると、それは日本の「カイゼン」に向けた言葉ではなく、ただ己の喉にまでこみあげた溜飲を下げるための言葉たちにすぎないのではないか。
そういう言葉たちを飲み込んだときに生まれるチクチクとした憤怒を、己の肉体を突き動かすエネルギーに昇華して行動する方が、おそらく世の中はよくなる。
諦めるように現状を受け入れて、
やり場のないいらだちを抱えたひとたちは、
パソコンの前で座って、まいにち溜飲を下げている。
そしてこの文章を書く私もまた、その一人なのであるということを忘れてはならない。
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