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意志なき言葉は不誠実

「書き言葉に誠実でありたい」

そう語ったのは、芥川賞を受賞した宇佐美りんさんだ。

メディアに携わる一記者として、誠実に言葉をしたためるということはなかなかできていない。「そこまで騒ぐことなのか?」ということについてもあーだこーだ騒がないといけないというのが、雇われている記者の宿命だ。

毎日の新型コロナの感染者なんかはその好例だ。何人であろうととりあえず報道する。
金利のちょっとした動きもそうだ。たかだか5糸甘とか5糸強でも、節目を超えればすぐに騒ぐ。
もっと柔らかいネタでいえば、芸能人のどうでもいい不倫とか、「だれだれを街で見た」といった意味のない話で騒いでいる。

サラリーマンとしての記者の立場から少し考えてみる。
どんな話であれ、職務命令として「書け」と言われれば、サラリーマンであるからそれを書かないといけない。
いつもいつも記者個人の意志が記事に反映しているばかりではなく、時にはどこからともなく生れ出た組織の意志がそこに介在しているだけの記事がそこにある、ということもままある。

もっと踏み込んだ言い方をすれば、自分の意志や思想や哲学があろうがなかろうが、どんな話だって書けてしまう。
ひとりひとりに意志がなくても成立してしまうのが実態だ。

一組織、会社として、戦略的に主張したいことを主張する自由はある。
ことさらに言論の自由を主張するのがマスメディアではあるが、その中にいる人間個人が言いたいことを言えている、とは限らない。まあ、お前の意志が弱いからだ、と言われればそれまでではある。

ただ厳然たる事実として、書けと言われて「特に何も思っているわけでもない」と思いながらも記事を書いた虚無感を抱えて、機械のように筆を走らせる日が確かに存在するのだ。

その瞬間、「私は果たして、書き言葉に誠実であろうか?」という思いがふとよぎる。
「言いたいことがあり、それを文字にし、世に問う」という、本来当たり前にたどるべき一連の過程を経ていない言葉たちが紙の上に踊っているのをみると、世の中をだましているような不誠実な自分の在り方は、悪心に似た不快さを呼び起こすのである。

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