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修学旅行でカレーを食べると必ず嘔吐する児童がいる不思議

小6の時、修学旅行初日の夕食で、カレーが振る舞われた。
先生が「くれぐれも食べ過ぎぬように」と注意したが、当然小学生なので聞いていない。
結果、違うクラスの太った男子児童が食堂で派手に嘔吐してしまった。
そのあとの展開は推して知るべしである。

なぜひとは注意されたことをわざわざやるのだろう、と嘔吐した児童を見て不思議に思った。
「吐くから食い過ぎるな」と言われているのに、「食い過ぎて吐く」というのは実に愚かしいだろう、と。

しかし、これを別の視点から考えてみると、「言葉は我々が思うより無力なのかもしれない」という事実が浮かび上がる。
厳密にいうなら、理性に訴えかけることばには、実はあんまり力がないのかもしれない、ということだ。

よくない例だが、「うざい」「死ね」「来るな」と言われれば人間だれしもショックを受ける。言葉は言葉でも感情に訴えかける言葉には、力がある。それゆえに、人の背中を押しうるし、残念ながら時には人を殺めもする。

もちろん、哲学書が持つような「理性に訴える言葉」に意味がないということはない。間違いなく必要な言葉だ。
というのは、理念という”型”が頭のなかに構築されるからだ。その型を持てば、経験するなかで流れ込んでくる迷いに、一定の解を与えうる。その意味は大きい。
ただし、こういった言葉はその人の思考が止まっているなら無力だ。
使いもしない鋳型を頭の中に入れても、別に意味がないためである。

話を戻そう。
人間を動かすのは大概感情である。
たとえば、「好きな人のタイプは?」という質問があるが、あれに該当しないようなタイプの人間と恋に落ちるようなことは結構あるのではないか。
頭で考えた正解と、感情的に「キュン」と来た正解と、必ずしも合致するわけではない。

私も含め、少なくない若者が理性的な言葉のなかに埋もれてしまってはいないか、と思うことがある。理性が命ずることは正しいと信じ、すっかり冷めきった私たちがそこにいたりはしないか。
そして時に現れる自分の感情を揺さぶる言葉たちを前にして、それらを理性で処理してはいないか。

人を動かしたいなら、言葉には熱が必要だ。多少内容が破綻していても、感情の赴くままにべらべら話す内容のほうが、人は結構動く。
メモを取ったりしなくても印象的なところは覚えているし、ただ全身で感じとるだけで「何かやろう」と思い立つものである。

言葉を発するばかり、言葉に終始し現実に影響を与えないのであれば、その言葉はお飾りでありポーズである。論理的な言葉であっても、そこに人を動かすエネルギーも、感動も、ない。

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