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みんなが求める「かわいい」じゃなく自分だけの”かわいい”を作ろう

この世界では「かわいい」女性は不当に利益を得ている。
「『かわいい』から」という理由で何かと得なことがこの世界は多すぎる。

例えば何かいたずらをしても、
「まあ『かわいい』から仕方ない」
とか、そのいたずらを叱ったりしてそいつが泣けば
「まあ『かわいい』から許そう」
とかいう話になる。

残念だがブスだとそうはいかない。いたずらをしようものなら、泣こうが喚こうがお叱りを受けるしか道はない。
それで少しでも『かわいく』なろうと頑張ると「『かわいこ』ぶってんじゃねえ」などと批判にさらされる。
「『〇〇ぶる』というのが『〇〇でない』ことを前提にしており(例えば大人ぶることができるのは子供だけである)、『かわいこぶる』ことができるのはブスだけであるから、すなわち『かわいこぶる』とはブスの特権である。だから堂々と『かわいこ』ぶろう」などと超絶ポジティブにとらえられればいいのが、なかなか現実はそうもいかない。

ゆえ、こういう時代にあってはとかく「かわいい」というものを追い求める圧力が働いてしまう。

しかしかわいいとは一体何なのだろう。考えてみると、これは非常に個人差のある観念であるということに気づく。

あまり褒められた話ではないのだが、若い男性のあいだでは「この子はかわいい」とかなんだかんだと値付けをするのが常である(まあ女性もやっているのだと思うが)。

その際に時に周りが騒いでいるのだが自分自身はそんなにピンとこない、ということがある。
逆に、かわいい人という意味でいえば若いころの榮倉奈々(いまはすっかりお母さんである)なんかがいるが、大学のころに女性の同級生から「榮倉奈々がかわいい?そんなこと思ったことない」と言われ、「こいつ自分が何言っているのかわかってるのか?」と心から思ったことがあった。

でも、あの子がかわいいとかこの子がかわいくないとか、そういう価値観をぶつけあってしまうと終着点はないし、最終的には宗教戦争よろしく血で血を洗うような「かわいい論争」が起こってしまうわけである。
これは健全ではない。

価値観をぶつけ合う前に気づくことがある。
それは、どんな女性であっても、どこかの男からみたらだれしもかわいいのではないか、ということだ。

乃木坂46の歌で「世界で一番孤独なLover」という歌があるが、あの中でも「どんな多くの人にそれなりに愛されるよりも たった一人の大事な人に愛されたかった」という歌詞がある。
どんな人間から「かわいい」といわれるより、たったひとりの好きな人からかわいいと言われるだけで十分なのではないか。

ひとむかし前、「カワイイは、つくれる!」というCMがあったけれども、何かに気に入られようとして作る「かわいさ」というのは、そのうち限界が来るように思う。
美容家として知られた佐伯チズさんも、「美容論は人生論です。その人の人生は全部顔に出ますから」とおっしゃっていた。(https://www.asahi.com/articles/ASJB45JJQJB4UEHF00W.html)

何かと「かわいい」という価値がもてはやされるなかにあって、それに踊らされるように「みんなが思う『かわいい』」に向かわされているひとが少なくないのかもしれない。それは集合的であいまいな「かわいい」といってもいい。だから「かわいい」自分は、気づいた時には何者でもなくなってしまう。

そうではなく、自分が追い求める価値を目指して自己実現を果たしているその姿にこそ、このワタシだけのかわいい、が潜んでいるのではあるまいか。胸を張って堂々と自分を生きる女性には、認められる「かわいさ」ではなく認めさせるかわいさがあり、そしてそれは容易に美しさへと昇華していく。

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