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夢を見られるいまは、先立った方々の夢
数日前、一人の方の訃報に接した。
最後にお会いしたのは、私含めた若者で机を囲んだ2021年の秋だった。
知識の面でも礼儀の面でも、諸々至らぬ部分があり、
「まだまだ、私から教育すべきことが残っていますね」
とお話をされていたのが印象的だった。「いやあまだまだ未熟で…」などといいながらお別れをし、お礼の手紙をお送りして返信をいただき、また来年も、と思っていたのだが、半年もしないうちに――実に無念でならない。
その方とは何度か、食事をともにすることがあった。
20年の秋にはたいへんご多忙で途中でお帰りになる予定だったのだが、別れ際に一言、
「元気でね」
と、いつになく柔らかい目で、たった一言口にされたこともあった。
ご高齢だったのもあるだろうが、きっと遠くない未来に「その日」が来るという思いを胸に抱き続けていたのかもしれない。
一日一日、確かに時間を積み重ねてきたからこそ、言葉には重みが出てくる。
それは言葉が人生の投影だからだ。
年月を重ねた人の
「元気でね」
と、わたしが言う、
「元気でね」
とでは、重さが全く違う。
誰しも「元気でね」と口にするときには「いつかまたどこかで会うことができる」という根拠のない思い込みが、必ずある。
どんな人であれ、また次会える機会があるなんて保証はどこにもないはずなのに、目の前で会い、そして親しく話した人と今後二度と会えないと思うことは、まずない。
「元気でね」という言葉の重みに、ふと自分の人生とことばの浅薄さを意識させられたものだ。
19年の秋にも、同様に食事の機会を頂いた。
その際には私も未熟でどれだけ貴重な機会を頂いているのかわかっていなかったのかもしれない、当時は色々と好きに質問をぶつけていた。
その際に、私は「今後の夢は何ですか」とその方に聞いた。
間髪入れず、こう答えた。
「あなたがた、ひとりひとりです」
虚を衝かれたような感覚だった。返す言葉が見つからず、私は黙りこんでしまった。
一つの死に接したいまになって、少しその言葉の意味が分かった気がする。
それは、夢を見て、そして叶えることは、これまで先立たれた方々への、せめてもの弔いなのだと。
そして、わたしたち若者が夢を見ているいまは、先人が抱いてきた夢だったのかもしれないと。
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