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わからないやつがバカなら、わかるように説明できないやつもバカ

高校生の頃はよく岩波文庫の本を読まされたものである。
改めて今見てみると「何がいいたいの?」と思ってしまうほど読みづらい。

特に青(海外の思想書みたいなやつ)なんかは海外の先人たちの出した本を日本語で読むことができるという歴史的な価値こそあれ、日本語としての読みやすさはどっかにおいてきたのかという突っ込みをしたくなるほどだ。
そもそも、読者に理解してもらおうという翻訳者の気概が感じられないのである。

当時の翻訳家は「読めるやつだけ読めばいい、読めないやつは知らん」くらいの認識なのだろう。知的階級とはそういうものである。

そういえばずっと前にM・ウェーバーの「職業としての学問」か何かで「知的廉直(ちてきれんちょく)」という言葉が出てきたときには目が飛び出たものだ。
いまでも意味はよくわからないのだが、まあ岩波を読む人など日本の中にいるごく一部のひとに限られてきただろうから、こういう態度も長らく許されてきたのだろう。


世の中には「マウントをとる」という言葉がある。

ツイッターは見るだけの私だが、もはや政治運動とネタツイートのあふれる空間になっている。まじめな話をツイートすれば必ず誰かにかみつかれ、互いのマウントの取り合いが即座に始まる。こんな言い方はよろしくないが、もはやツイッターは言葉の肥溜めのような場所と化していると私は思っている。

まあそれはそれとして、「マウントをとる」という意味で最近よく思うのだがやけに難しい言葉で色々しゃべっている人が世の中にはいる。
岩波文庫の難しいやつを読まされているときとだいたい同じような感じだ。多分誰もわかっていないのに、一方的にべらべらと話しているのだ。

研究者の世界みたいに、ある程度受け取る側の知的レベルが高いことが前提になっていて、そうでもないと話が進まない場合はともかくとして、そういう状況でもないくせに自分の知識をことさらにひけらかすのである。

そういうひとをみると「この人はマウントを取りたいんだなあ」などと思う私がいる。
誰もわからない話をわざわざ難しくべらべら喋り、得意気にしているそのツラを見ながら、どこか気の毒な思いがしたりする。

本来コミュニケーションというのは相手がわかったうえで一歩一歩進むものである。
相手に伝える意志がないコミュニケーションに、大した意味はない。

「お前は勉強不足だからバカだ」という風にわからないやつをバカにすることは世の中に残念ながら少なからずあろうかと思うが、それを言うのであれば「お前は勉強不足のやつにわかるように説明できないくらいのバカだ」ということになったりもする。
相手に対してマウントを取ろうとあがいたとき、相手と大して変わらない存在であることがひとたび露見してしまうことがある。

マウントを取るための言葉は、鏡のように己をうつしだしている。

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