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見えなくなっている風景は、時が進むにつれ増え続けている

私はなぜかわからないが、1980年代の文化に妙に惹かれてしまう。

音楽が最たる例だ。いまだにribbon時代の永作博美とか、島田奈美がめっちゃ可愛いとか言いながら毎日を過ごしている。
音楽のみならずアニメや歴史にも関心がある。

日本が「失われた●年」に入る時期の直前、日本がまだ「失われていなかったとき」を私が本能的に求めているのかもしれない。

昔の音楽を聴いていると、ふとこんな詞に出会う。

一人になったら受話器を握りしめて 誰にでもいいから話がしたくなる
ダイヤル回して呼び出し音が続き 留守番電話から明るい声が (村下孝蔵「弟」)

Daring, I want you 逢いたくて ときめく恋に駆けだしそうなの
迷子のように立ちすくむ 私をすぐに届けたくて
ダイヤル回して手を止めた I'm just a woman Fall in love  (小林明子「恋におちて -Fall in love-」)

「ダイヤルを回す」という表現は、スマホに慣れ親しんだ現代の子供たちからすればすっかり死語である。
表現として意味を持たない。

一度でも、黒電話を使ったことがある人なら、「ダイヤルを回す」という一言だけですぐに黒電話の受話器をもって人差し指でダイヤルを回す姿、そしてダイヤルが戻るまでのわずかな時間に流れる「ギーッ」という音が、目の前でありありと浮かんでくる。
でもそんな映像は、校庭を元気に走る小学生たちの多くに存在しないのだ。

少し古い作品だが、ラブコメの屈指の名作に「めぞん一刻」というものがある。
アパートの管理人さん(未亡人)とさえない主人公の五代くんとの恋愛を描いた話である。
この五代くんというのが教育実習の教え子である八神いぶきという少女などに振り回されながら、管理人さんがやきもちを妬いたりしてすれ違いつつそれはもうくそ面倒くさい展開になっていくのだが、この作品ではよく待ち合わせをしたのにいろいろトラブルをして結局会えない、というもどかしい展開に陥ることが多い。

これも、現代社会ではまずありえない。
スマホでLINEを開き「いまどこ?」で終了である。

待ち合わせの時間になっても来ない、漠とした不安。
しかしそれでもそこを動くわけにはいかない、いわば場所に縛り付けられた感覚。
こうしたものを現代社会で感じることはすっかりなくなった。

便利さは生活を発展させ、ストレスや苦労から人を開放する。
しかし、それと同時にその苦労の中にあった瞬間の人の心や、ストレスのかかっていたときの思いは、どこかに忘れ去られていく。

便利になったいま、不便だったときに感じていたあのもどかしさたちを、私たちは表現し得なくなっている。

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