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その仕事は、国益にかなっているのか

自分の仕事は果たして国益にかなう仕事なのかを、最近よく考えている。
仕事はそれなりに楽しいし、勉強にもなるし、口に糊するくらいのお金も頂ける。
この上ない幸せである。

満たされた私はぜいたくなことを思うようになった。自分のなす仕事が国益にかなっているのかを考えるようになったのだ。

記者の仕事をまるっといえば、
①会社なり偉い人から先にネタを取ってきて、
②先んじて報じる(書く)
というのが大きなミッションだ。要はニュースを取ってくることである。

企業広報にとっては確かにニュースを記者に与えれば大きく報じてくれる(かもしれない)し、コストをかけずに企業の取り組みについて載っけてもらえるというのは大体の場合プラスのことだ。

かたや記者としても先んじてニュースがとれるので、これは実績になる。双方にとって意味のある行為である。

じゃあ、こういう行為によって国が良くなっているのか、と問われると、どうにも首肯できない自分がいる。

そのうち公表されるものを先に報じることで国が良くなった、といえる保証はない。

銀行の研修で「ひとは小さい範囲で勝とうとするのだ」と教えてもらったのを、いまでも覚えている。

会社よりも課、課よりも係、係よりもチーム、チームよりも自分…と見る見るうちに分母が小さくなるのが人間だと。

そう思うと、国家より業界、業界より自社、自社より自分の部署…と小さくなった結果が、私の「己の仕事は国益にかなっているのか」という疑問に帰結するのかもしれない。


ちなみにこれはいわゆる「特ダネ」だって同じだろう。

政治家の不祥事、浮気、不倫、熱愛、会社の不祥事―いずれも誰かが掘り起こしてニュースとなっている。
時には人の家にまで行って。尾行までして。

記者だが、やられる側になって考えてみるといい迷惑だなと思う。


こういう不祥事は、当事者でもなければだいたいはどうでもいい話だ。
あったらあったでエンターテインメントとして消費され、なきゃないで死ぬわけでもない。
こういうものだって報じたところで、日本が良くなるわけでもない。

長らくマスメディアは報道というものを続けてきて、日本はよくなってきたのか。
とりあえず、手当たり次第に世の中に批判をしてきて、日本はよくなってきたのか。


社会に文句を垂れるのは簡単だ。
偉そうに課題を提示するのは簡単だ。
今の時代、こんな小さなブログでもSNSでも好き勝手書ける時代になった。

社会が悪い、政治が悪い、経済が悪い、会社が悪い、偉い人が悪い、親が悪い、ルールが悪い、法律が悪い、伝統が悪い、外国が悪い、日本が悪い
―と言ったところで、日本が良くなるわけでもない。

だから、言葉だけでああだこうだと論ずることが、どうにもいびつに感じてしまう。
思いたくないが、時に言葉そのものの存在価値を疑うことがある。

研究者とかはまた別なのだろうが、私自身は実動を伴わない言葉というものに強い違和感とでもいおうか、「これじゃない感」を覚えてしまう。

マスメディアが、自社の経営はひどい赤字を垂れ流してたりするのに、他社の経営にああだこうだと意見していることは極めていびつだ。

「何がマスメディアだ、偉そうにしやがって」という感覚が、書いている側の立場でありながらわたしには常にある。

だから国益を思うなら、言葉だけではなく結局は行動が不可欠なのだということだ。
そして行動が伴わないと、言葉たちの嘘は見抜かれてしまうのだろう。

そうして自分が並べた言葉を眺めると、実に軽薄だと思わざるを得ないのである。

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