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裏側を見ようとすること

小学生のころの話である。生活科か何かの時間に、学年全体で菊を育てることになった。
植木鉢にひとりひとり名前のシールを貼って、種を一人一人土にぶっこんだところまでは覚えているのだが、私はそれ以降一切の世話をせず菊を放置していた。

それから数か月、菊に関心もないまま自由に過ごしていたのだが、たまたま休み時間に「そういえば」と思い立って菊の様子を見てみると、ほとんどが枯れ果てるなか、すこぶる立派な菊がそこに咲いていた。
生活委員かだれかわからないが(様子を見に行っていないので誰が世話をしてくれているのかなどわかるわけがない)いつの間にか面倒を見てくれていたようだ。何もしていないながら、妙に立派な菊に感心してしまった。

さらにその後、市内で菊のコンテストみたいなものがあり、なんと私の立派な菊が入賞してしまったのである。私が一切手をかけずにすくすくと育ってしまった菊を見て、市内の偉そうな人たちは「一生懸命育ててもらって…」というありきたりな賞賛のことばをわたしにかけてくる。
「実は育てていない」などということも言えず、ただ場違いな私は下を向いているしかなかった。

そのとき私は、「世の中頑張っても、表で報われるわけじゃないんだなあ」ということを幼いながらに感じたのを覚えている。
そして、いろんな物事の裏には、誰かがいて、何かがあるんだという確信を強く持つようになった。
このあたりから(いいのか悪いのかはわからないが)若干世の中をはすに見る特性が出てきた。
たとえば、人の笑顔を見て「このひと、本当はつまんねーと思っているし、興味もないんだろうな」とか、言葉を聞いて「これ本音じゃないな」とか、表に現れない裏にある何かを徐々に感じ取っていくようになっていったのである。


ものごとの裏側を見ようと試みる意志は、非常に重要だと思う。
結果的に裏側が見えてこないこともあるが、見ようと考えを巡らせることで新たに見えてくる世界がある。

今お稽古をしている茶道で、時々お見えになる先生がいる。
その方が以前、「表にいる人の姿が立派に見えるのは、裏で準備をする人にこそ実力があるからだ」という話をしていた。
お着物の仕立てなどをしている同氏である、裏側からものごとは支えられているのだというお話は、ほんとうにその通りだと思う。

裏側であくせくと動いてくれた誰かがいるから、ぱっと見立派な功績が出来上がる。
しかし表向きのまぶしいものを見て人は賞賛し、勲章を与え、そして万雷の拍手を送る。

裏にいるのに「誰かに褒められたい・認められたい」と思って「俺も俺も」と欲を出すと、その人は万雷の拍手で迎えられるだろう。表の人間になれるだろう。
でも、その瞬間、裏の人間ではなくなる。
まあそもそも、ほかの人が「実は裏にはこんな人がいて…」と言うのはよいにせよ、自分からいけしゃあしゃあとでしゃばるのは、子供でもあるまいし実に不格好だ。いちいち説明するなど、野暮なのだ。

だから、裏側にいるひとには、賞賛も何もない。
「褒められるためにやっているわけではないし、これでいい」と思える人だけにしか、裏側にいることはできない。
一つの輝かしい功績を得た表の誰かを見て幸せになれる人しか、裏側にはいられない。
この、決して表には出ない、控えめな尊さがそこにはあるように思う。

スポットライトの当たるステージの裏側で、声をひっそりと潜め、ひたすらに汗をかいているひとたちがいることを、忘れてはならない。

はて、私の菊を懸命に育ててくれたのは、一体誰だったのだろうか。
答え合わせもできぬまま、しかしだからこそ裏にいる「誰か」を、裏にある何かを、求め続ける営みはやまない。

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