見出し画像

転職物語⑬ さいごに

転職に際しては、周りの人の横やりが多い。

「仕事は三年するべきだ」
「すぐに転職なんかするものじゃない」
「どこに行っても変わらない(これは、私自身一つの真実だとは思うが!)」「我慢せよ」

と、様々だ。

しかし、こういう事をいう上司・親(ともすると友人)は、一体全体「あなた」の人生の何を保証してくれるのであろうか。「三年続けろ」と言った上司は、三年後の「あなた」のキャリアを何か保証してくれるのだろうか。

断じてそういうことはない。会社が潰れている可能性もあるし、会社に潰されている可能性だって当然ある。まして上司が「あなた」の首を切る可能性だってゼロとは言えないし、「あなた」がもうどうにもこうにもラチが空かなくなって自ら命を絶つことだってあるかもしれない。

信頼しているひとなら、その言葉を信じればいい。信頼がなければ、そんな言葉が自分の何を保証するわけでもない、という考えに自然と至る。自分の意志や考えを持って動けばいい。ただし、そこに付随するあらゆるリスクは、自分の責任に帰する覚悟を持つことが必要、というだけの話だ。

その責任を負う覚悟、自分を貫く覚悟が無いから、その人を強く信頼しているわけでもないのにその会社に居続けてしまう、という事態が起きる。組織に守られているような感覚もあるのだと思うが、ここには他責志向と脆弱な意志、そしてそれに伴う思考の停止があると私は考える。

思考の停止は意志の弱さに起因する。意志を持たねば考える必要すらなくなるのである。これら三つの現象は私も含めた現代の若者に、まあまあありがちな態度であると思う。

その三つの態度を保ちながら、周りに流されて世界を漂う人間が多くはあるまいか。そんな態度が「社会人としてそれなりにバランスの取れた態度」と感覚しながら、生きている人がいやしないか。そうして「あらゆることは世間の責任であり、自分には責任が無い」と、そんなexcuseを日々振り回してはいないか。

そういえば、2017年4月26日の日経新聞の朝刊で特別号が付属されていたが、それを読むと新卒の学生たちが「安定感」を求めていることが良く分かる。

ブラック企業を敬遠するのは気持ちとしてよく分かるが、結婚もしておらず子供もいないような大概の新卒の学生たちが安定感のある企業を求めて、一体そこに何が生まれるのだろう。まして結婚したくない人間も増えていると聞くし、一体人生何なんだという気もしなくもない。

漠然としたこの社会に対する不安がそういう行動の引き金になっていることは容易に想像できるが、しかし冷静になってみれば組織の安定性は何も組織そのものが担保しているわけではなく、そこにいる個々人が担保し続けなくてはならないものである。

「安定感のある企業に行けば大丈夫」という組織にぶら下がるような思想を持った人間というのは、すでに思考は止まっているし、意志もないし責任感も希薄だ。組織をあてにしている時点で、そうならざるを得ない。まさしく上に記した「三つの態度を保ちながら、周りに流されて世界を漂う人間」である。

私はそのような生き方をクラゲ的だと思う事がしばしばである。パスカルの時代から長い時を経て、人は「考える葦」から「考えないクラゲ」にでもなったのだろうか。こういうクラゲ的なふわふわした在り方の人間は、会社にとってもその個人にとっても、プラスの効果を持つものではないと私は考えている。

組織にとっては、当然その組織に忠君を誓い、組織のために動く人間が欲しい。個人にとっては、自分の意志や哲学に合ったことのできる場所が欲しい。この二つが合致する企業と個人の関係が、当然最も望ましい。

「企業の哲学とずれた意志を持つ個人」の存在は、企業の生産性の低下を招きかねない。大概、上述した組織の在り方はぶれないから、ぶれるのは個人の在り方になる。

基本的に組織は権力的に振る舞う傾向にある。組織は個人の集積に過ぎないのに、組織という曖昧な輪郭の存在が個人の行動をある程度規制したりするのだ。

これは個人的な意見だが、規模や業種とかそういうものより、何より就活などで大切なのはその企業がどういう方向へ向かおうとしているのかというところと、自身の信念との親近性だと思う。あとはその企業が何をしているのか、有り体に言えば業種である。この二つがどうにかなれば、企業にとってはそれなりに生産性のある人間が取れるだろうし、個人にとってもそれなりに納得される組織に帰属することになろうと思う。

そしてなにより、「自分勝手に動ける」という幸福、これは「選ぶことが出来る」という幸福に他ならない。その幸福を享受しないという手は無い。環境に何ら制限がなく、「選ぶことが出来る」という状況にある時、人は何故か強い意志を持って行為することに抵抗を覚える時がある。「どうにもならない状況になって、一つの選択肢しか残されていない状況になってくれたらいいのに」などと思った経験が、恐らく誰しも一回くらいはあるのではないか。どうにも嫌なことが向こうあって、「○○が死んでおじゃんにならないかなあ」と思ったことはあるまいか。自分の意志でその「嫌なこと」を避けることだって出来るのに、それを選ばない。周りの環境の変化を望むのだ。

これは、「自分の意志で選んで無いから、自分のせいじゃない」という言い訳を生む。これこそまさしく他責だ。

転職を考えることは誰しもあるだろうと思うし、会社の愚痴を言いながら同期と傷を舐めあう日々を過ごしている人も多かろうと思う。家庭があるとかローンの返済があるとか、社会的な制約に近い状況があれば止むを得ないが、そうではなく比較的自由な身にある人であれば、そんな不満があるなら動いてみれば良いと私は思う。

最初の話に戻るが、要は動こうとすればいろんなことを人から言われるだろうが、最後の最後決めるのは自分なのだということだ。動こうと決めるも自分、動かないで頑張ろうと決めるのも自分だ。

環境が許す限りは自分の責任の元に自分の意志で、絶えず思考しつづけて物事を決定する態度というものが不足している。だからこそ意志が必要だ。

行くも行かぬも動くも動かぬも自分の人生である。人生には自分の最終的なビジョン、終着駅があって、その途中にあるのが転職という一つの「駅」に過ぎない。

転職はゴールではない。むしろ、退職こそが「今までの仕事のゴール」であって、転職は「これからの仕事のスタート」なのだ。今まで乗ってきた電車を降りて、乗り換えて、また別の駅へ向かう―そんな営みに過ぎないのではあるまいか。

こんな風に考えると、転職なんて大したことじゃないように思えてくる。やる前までは人生の一大事、とまで考えていたが、ただ電車を乗り換えるだけ、そんなささやかなものだ。

問題は、乗り換えた電車の行先が果たして自分の行きたい方向なのかどうかは電車が動いてみないと分からない、ということである。こればかりは、ネットの評判という「乗換案内」がさっぱり役に立たないから困ってしまう。

ただ、あなたの乗った電車の線路は、いまだ敷かれていないのである―。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?