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時を経てわかること①~言葉をそのまま信じる愚かさについて~

就職活動をしていたとき、地方の新聞社の採用の質問コーナーで「遺族取材って社会的意味あんの?」と聞いたことがあった。

もし私が同じ質問をされたら「社会的な意義がないと思うなら、君はなんで遺族取材するとわかってる新聞社なんか受けるの?社会的な意義があると思うようなほかの仕事すればいいよね。そもそも君の思う社会的意義って何?」と意地悪にいうのだろうが、当時はまだまだ青かったのである。

幸いにも質問に答えてくれた人は結構誠実で、ああだこうだと説明してくれた(あんま覚えていない)あとに、

「それでも…遺族取材はやらなくてはならない、必要なことなんだよね」

と苦しそうに言ってくれた。

当時の私は「全然説明してねーじゃん」などと思ったのだが、いまであればきっといろんな思いを飲み込みながらデスクとかに行けといわれて向かったりしているのだろうなあと容易に推測がつく。

「それでも…遺族取材はやらなくてはならない、必要なことなんだよね」

と絞り出すように言葉を紡いだその合間合間に、いろんな葛藤や思いが詰まっている。曲がりなりにも記者をしているいまの私には、手に取るようにわかる。

時間が経って経験を少しばかりでも積み重ねると、こんな風に言葉の後ろにあるものに思いが至るようになる。「行間を読む」ということに近いかもしれない。

世の中にあふれることばの後ろには、往々にして何かが潜んでいる。
日常にあふれることばなんてほとんどはそうだ。適当なリップサービスや優しいウソがたくさんある。
そういうリップサービスを真に受けたり、優しいウソを真に受けたりしていると、いろんなことを誤る。

政治家なんかはわかりやすい。「しっかりと検討する」というのを本気でとらえるのは間違いのもとだ。
「しっかりと検討する」ということは裏を返せば「検討はするけど、今時点で何かするわけではない」ということだし、官僚が準備した紙を読みながら言っている様子を見れば「ああ、まあ適当にしゃべっているんだな」というのは容易にわかる。
とにもかくにも、行間のある言葉を真に受けてはならない。


最近はネット上に意味不明な言説が並ぶことも増えた。
こういう現象にわたしは「言葉をそのまま信じている人の愚かしさ」のようなものを感じる。
何とかステートでもなんでもいいが、根拠もないのに、それを信じて盛り上がっているひとたちもいる。いわば一種の信仰に近い。

きっと言葉をそのまま信じるほうが楽だし、考える手間も省ける。信仰に身を投じたほうがあまりにも楽だろう。

でも、その考えるというひと手間を失ってまで、私は言葉の後ろにある何かを見ない・行間が読めない人間にはなりたくはない、と思う。(つづく)

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