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「戦争反対!」で戦争がなくなるわけもなく

ウクライナを巡る状況が緊迫している。毎日めまぐるしく情勢を伝えるニュースが入るなか、たった一週間で世の中でいわゆるリアリズムの論調が跋扈するようになった。

自分の国は自分の国の軍隊で守るべきだとか、そのために軍事費をあげるべきだとか、ウクライナ情勢の帰趨は将来の台湾・日本の姿と同じだとか、さらには日本の核武装を検討すべきだとか、挙げてみればキリは無い。

日本ではかれこれ75年以上、戦火が我々の眼前に広がったことはない。これはこれですごいことなのだが、戦争のない日々がこれからも同じようにやってくる保障はどこにもない。

一見すれば、戦争や争いは、私たちにとってはなじみのない非日常、もっといえば非現実的な現象であるかのように錯覚してしまう。

しかし、世界を見渡せばそんなことはない。足元であればウクライナとロシアの戦争があるし、世界各国で内戦はやまないし、日常的にミサイルが国土にぶちこまれている国もある。世界のいろんなところでは、戦うことは現実の脅威として普通に存在している。

「鼓腹擊壌(こふくげきじょう)」という言葉がある。人々が腹でも叩いて踊っていられるほど、歴史や世間に無頓着であり続けられるような平和な世の中を指す言葉である。

いまの現代社会を見るに腹をたたいていられるほどのんきな時代ではない。ゆえ、私たちは馬鹿の一つ覚えのように「戦争反対!憲法九条堅持!平和!平和!」と叫び続けるだけでは、残念ながら不十分である。

戦争に反対して戦争がなくなるならとっくになくなっている。誰だって自分の命を危険にさらしてまで人を殺したくはないし、殺されたくもないのだ。それでも戦争がなくならないから、ひとは戦い、どうするかを考えながら、歴史を紡ぎあげてきた。

いよいよ言葉「だけ」に頼るのはあきらめた方がいい。現代社会で安逸をむさぼるばかりではなく、地球儀を見て世界に思いを馳せる日がもっとあっていい。言葉にはまずもって力が必要だという認識が世の中で少なからず広がっていることは、日本にとってはプラスのことだろうと思う。

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