山桜

山の中、少し湿った土の斜面を手をついて登っていく。目的の木が目の前に迫ってくるにつれ、だんだんと気分が高揚していく。
やがて私は立ち止まると、上がった息を整えないままに、そうっとその幹に触れる。円やかな手触りが心をくすぐった。
その桜は、ソメイヨシノなんかよりも色白で、少しばかり貧相ではあるが、緑や茶色ばかりの山の中でひときわ輝いていた。
リュックを下ろすと、リリンと鈴の音が響いた。さすがに熊はいないとは思うが、野生動物を避けるために念のため。
音の少ない山の中では、この鈴の音さえ無機質な金切り声のように聞こえる。私は、木々のさざめく音が一番好きなんだろう。
リュックから折りたたみ式の椅子を出して、ぼすんと腰掛ける。背もたれは桜の木。目に見える範囲には虫は這っていなかったから大丈夫だろう。
軍手を外して、リュックから水筒を取り出す。中身のなくなったリュックがくたりと寝そべった。
こぽこぽと冷たい麦茶を注ぎ、くっと飲むと、身体が心地よく冷まされる。それだけで景色が一層鮮やかになるものだから、人間ってものはゲンキンだ。
身体を休めたところで、改めて見上げると、ごくごく薄い紅色が視界いっぱいに広がる。見ているだけで、甘い香りが香ってきた気がして微笑む。
そうしていると、遠くから木々のさざめきが聞こえてきて、私の元へ風を運んできた。
風が届くと、薄紅の花びらがばらばらに舞う。さわさわと歌いながら踊る。
私は時間も忘れて見惚れていた。地に落ちながら歌い、舞う姿はあまりにも切なく美しすぎた。
胸が締め付けられ、涙が頬を伝う。少しずつ、ガラだけになった濃い紅色が増えていく。
桜を見に来たのに、視界がぼやけていたら意味がない。雑に涙を拭うと、立ち上がる。もう、ちらほらと若葉が芽を出していた。
近くの枝を優しく手に取り、若葉に口づけると、確かに桜の香りがした。裏側がほんのりと紅色がかっている。もう一度だけ桜の香りを楽しんでから、椅子に座り込む。
麦茶を一口含んで桜を仰ぐと、もう既に緑の森に紛れていた。あの夢のようなひと時を、夢ではなかったと確信したかった。
やがて、残った麦茶を飲んでしまうと、私は、足元の桜の花びらをひとひら手に取った。そしてリュックのポケットに入れ込む。ぶら下げていた鈴が、リリンと鳴った。