76歳の少女

久しぶりの祖父母の家は、ひどい有様だった。そこらじゅうに人の糞便が転がっているわ、床も柱も腐っているわで、とてもじゃないけど中に人が住んでいるなんて思えなかった。なにより酷いのは匂いだ。ガスマスクするべきだと僕は半ば本気で思った。
靴のまま、まず玄関から上がったのは母だった。
「お母さん、お母さんどこ?勝手に上がるよ」
続いて僕と父も上がる。こんなことなら履き潰したスニーカーをとっておくんだった。今のスニーカーも、大して気に入っているわけでもないが、すぐに捨てるのだろうと思うと急に惜しくなった。
僕がスニーカーに思いを馳せる暇は1秒となかった。
「お母さん!!私は彩子!娘のあやこ!」
母の怒鳴り声が聞こえたかと思うと、子どものように泣きじゃくりながら僕の脇をかけていく母の姿が見えた。
あっけにとられていると、服にところどころシミがついた祖母が出てきた。
「あら、ゆういち兄さんも帰ってきたのね」
横を見ると、父はいなかった。母を追いかけて慰めに行ったみたいだ。遠くから「私のせい」と泣く母の声と、何かしら話しかけている父の声が聞こえたからすぐに分かった。
「ゆういち兄さん?」
祖母が不安気に僕をのぞき込む。僕はゆういちではないし、ゆういちが誰だか分からない。
「えっと、娘さんが泣いていますよ?」
祖母は柔らかく笑った。
「ああ、あれ絹子よ?あの子時々変なこと言うから」
絹子さん?誰だっけか、名前は聞いたことあるから多分親戚だとは思うのだが。
「それよりゆういち兄さん、本当に来てくれるなんて思わなかったわ!今ちょうど家族がみんな出払っているの」
ぼーっと話を聞いていると、祖母が僕の手をとる。今にも崩れ落ちそうな細く乾いた手。
「川田さんの嫁になんてならない。大人しく嫁いだりしない」
川田は母の旧姓だ。相変わらず事情は全く分からない。だけど、少なくともこの人は、母を育て僕を抱いた祖母とは別人だと思った。
「ゆういち兄さん、私覚悟は出来ている。私を遠くへ連れてって下さい」
微笑んだ彼女は、僕の同級生のどの女子よりも可憐だった。汚い家も異臭も、この笑顔を引き立てる為に存在している気がした。
彼女は祖母じゃない。
細く崩れそうな身体でも精一杯に咲く、一輪の美しい少女だった。