五年後の

春休みもちょうど折り返しを迎えた今日。まだまだつぼみばかりの花壇を横目に、懐かしい校門をくぐり抜ける。ハツラツとした野球部の声が、やけに眩しく感じた。
その泥まみれな姿にしばらく目を細めてから玄関を上がる。どうやらスリッパの場所が変わっているようである。仕方がないから靴を置きっぱなしにしてそのまま板張りに上がる。雑にワックスがけがされている床は、ところどころ滑りやすい。
ゆっくり階段を上がって職員室につく頃、これだけで息が上がっていることに気がつく。少し苦笑いをしてから軽く戸をノックすると、がたがたと大袈裟に音を上げる職員室の戸。そういえば、もうすぐ建て替えられるんだっけ。
「卒業生の鈴木ですけども、山梨先生いらっしゃいますか?」
そっと戸を引き、職員室をのぞき込みながら声をかけると、見知らぬ人たちが一斉にこちらに顔を向けた。そして、見知った彼女に視線を向ける。
「鈴木君?久しぶりですね」
彼女の一言で、また、見知らぬ人たちが作業や雑談を再開する。
「お久しぶりです」
僕が軽くお辞儀すると、山梨先生は手招きした。
「ごめんなさいね、ごちゃごちゃしてて。私、来年から移動だから、片付けなくちゃならないんですよ」
山梨先生の嬉しそうな声を聞きながら、大量の机をひとつひとつ避けていく。彼女の元まで行くと、近くの椅子が引かれた。
「少し座って待ってて」
彼女はそう言って席を立つと、職員室の入口付近に行き、大きな冊子と、二つつながった鍵を手に取った。少したれた横髪を耳にひっかけてその冊子に何か書き込んでいく。
「鈴木君の頃はこういうの書いてなかったですよね。私の名前で借りますから、私に返してくださいね」
彼女は僕に笑いかけながら、冊子を元の場所に戻した。僕が立ち上がり鍵を受け取ると、山梨先生は少し苦笑いをした。
「本当は色々お話を聞きたかったんですけど、あとからにしますね」
「俺、そんなに急いで見えました?」
彼女の苦笑いにつられて、僕も軽く笑った。
「気が気じゃないのがよく分かります」
今度は柔らかく笑うと、山梨先生は自分の席へと帰った。僕の足が、もう職員室から出ようとしていたからだ。
山梨先生のことは嫌いじゃない。むしろ当時は淡い恋心も抱いていた。だけど、山梨先生とお話するよりも、今はどうしても音楽室に行きたかった。一刻も早く約束の場所に着いて、彼らを待ちたかった。
五年前の今日、こっそり音楽室に集まった合唱部。
「鈴木君、磯部君、五年後の今日に、ここに集まろうね」
泣きながら笑っていた川瀬さんの顔も、今ではおぼろげだ。あの時、磯部はどんな顔していたっけ……。
早足になっていた歩みを止めて、目の前の扉を見上げる。ちびだったあの頃の僕には、もっと大きく見えていたけれど、案外普通の引き戸だった。少し扉を引き上げながらでないと差し込めない鍵、人ひとり通れるか通れないか位で引っかかる戸。僕はもう、半開きの戸からは入れなくなっていた。少し嬉しさを感じながら、僕は戸の下の方を持って残り半分開けた。
音楽室の独特の匂いが、鼻をくすぐった。心が震えるような懐かしさが全身に駆け巡る。山梨先生の豪快なピアノ、磯部の少し鼻にかかったバリトン、そしてひどく澄んだ川瀬さんの歌声。身体中が覚えていたここでの記憶が鮮明によみがえる。
五年前、磯部はずっと泣くのをこらえてたんだったな。
懐かしさに心を打たれながらも、僕の足はピアノへと向かっていた。その上に乱雑に置かれていた楽譜達に目を通すと、一番上には、あの時歌った曲のものが置いてあった。山梨先生が用意したのだろう。
楽譜に何度か目を通し、譜面台に乗せる。僕はピアノの前に静かに座り、椅子の高さを調整する。それから、ぐっと椅子を後ろに下げてからペダルに足を乗せた。
少しゆっくりめに……。
胸の中でテンポを刻み、息を吸う。直後、少し切なげな和音が部屋に響く。和音は形を変え、メロディを作る。
はじめの主役は川瀬さんだ。僕と磯部は川瀬さんの歌声を潰さないように、丁寧に歌う。次は少しだけ磯部が主役になる。低音でよく響く声に僕が控えめについて行く中、川瀬さんが全く違うメロディラインをなぞる。そして最後は川瀬さんの澄んだ声が……。
そう、澄んだ声が聞こえる。かすかだが、少女の歌声が聞こえてくるのだ。少しピアノのボリュームを下げると、はっきりと聞こえてきた。目を移すと、廊下の方に人影が見えた。声の主だ。
曲が終わると、僕は跳ねるように立ち上がり、人影の元へと走ろうとするが、ピアノの足につまづいた。すごく痛いが、なんとか体勢を整えて走る。
すりガラスの向こうの影が階段の方へ逃げていくので、慌てて窓まで駆け寄る。
「待って!お願い!」
窓から廊下へと顔を出し、僕は叫んだ。かばんを抱えた少女が恐る恐る振り返る。
「あ、いや、その……」
怯える少女に何か声をかけようとするが、何も言葉が浮かばず、どもってしまう。
「えっと、まず、俺は卒業生。不審者じゃないんだ。あ、君、歌上手だね。合唱部?俺も合唱部で……」
僕が話している間に、少女は走って逃げてしまった。怖いお兄さんにナンパされたとでも思ったのかもしれない。もしくは不法侵入者に声をかけられたとか。
山梨先生がいる以上、まさか通報はされないとは思うのだが、やっかいなことになるかもしれない。頭をかきながらピアノに座ると、戸の開く音がした。
戸の方を見ると、かばんを抱えた少女が身体をよじらせて音楽室に入ってきていた。
「合唱部は今年で廃部なんです」
戸を閉めながら少女が言った。
「三年生が卒業して、部員が私一人になるのと、山梨先生が異動になったのとで、廃部になるんです」
少女は泣きそうになっていた。
「そうなんだね」
僕はどう対応していいか分からなかったので、ひとまず相づちだけうった。
「それで、最後に歌おうと思って、卒業式の日の午後だったら人が少ないと思って、それで、そうしたら伴奏が聞こえてきて……」
泣きそうになっている少女を見ていると、なぜだか罪悪感がわいてくる。
「ごめん。本当、驚かせる気はなかったんだ。ただ、知り合いの声に似ていたから、その人かなぁって思っただけだったんだよ」
僕が慌てると、少女はぶんぶんと首を振った。
「こちらこそすみません。ピアノを邪魔したり突然逃げたりして」
思いの外謝られてびっくりしたが、いい加減謝り合うのが面倒になってきた。
「いいんだよ。俺も伴奏だけじゃ寂しいと思っていたし。もう一回はじめから歌い直そうよ」
彼女の反応を待たずにピアノを弾き始めると、少女は驚きながらもしっかりと歌い始めた。
その澄んだ歌声に合わせて僕は控えめに歌う。確かにこの子の声も澄んでいるが、今度は川瀬さんとは違う声だと分かった。
そして、少女から磯部へと主旋律が移る。大阪で働いている彼の代わりに、今だけは僕が磯部のパートを歌う。
そして最後は、少女の高く澄んだ歌声が存分に発揮されるフォルティッシモ。僕も負けじとピアノを鳴らし、喉を鳴らす。
川瀬さんにもきっと届くくらい、磯部があの日々を思い出すくらい、大きく響かせた。
歌い終わった時、僕が涙を流しているものだから、少女はぎょっとしていた。慌てる少女をなだめた後、何曲も二人で歌った。
あの日から五年が経った今日。僕は来ない磯部と来れない川瀬さんをずっと待つ。