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【覚書】目に見えない宝を守っていくこと-日本文化についての考え事 枯葉の記を読んで

 愛する日本の文化。季節が繊細に移り変わっていくなかで暮らしてきた人々の感性や美意識。それらが段々と失われていっているような気がして、どことなく淋しい。


 秋の夜長に台所で緑茶を淹れながらふと考えていると、自分は幼い頃からそういったものを気に入り、愛してきたと気付く。豊かな自然、虫などの動物や草木たち、古典文学、着物、日本料理や日本酒など。

 中でも私は古典文学を愛してやまない。今の時代の作家の方が書かれる小説も好きは好きだが、明治大正時代の文豪たちの情景を彷彿とさせる文章表現はやはり段違いだと感じる。書かれた言葉たちが浮きたち躍り、ある意味映像よりも鮮やかで生々しいものを見せられることがある。

 まず、季節や情感を表現するために使う草木の種類があまりにも多い。木斛(もっこく)や山茶花(さざんか)など、道を歩いて見つける前に本を読んで知った植物がたくさんある。知った後実際に出会ったときに、ああこの花はこんな形でこんな香りだったんだ、と二度感動するのである。


 今読んでいる最中の永井荷風の小品集に「枯葉の記」というものがあり、その中に出てくる芭蕉の葉についての記述が秀逸だった。荷風も今の私と同様に台所へ立っているときに、窓から無花果の枝に枯葉がへばりついているのを見て、今風に言うと「あの枯葉は格好良くないな」と思ったらしい。そうして『おのれにも 飽きた姿や 破芭蕉』という香以山人の一句を思い出す。

これは喩えとして破れた(枯れた)芭蕉の葉を使った一句だそうで、それを想像した荷風が「大きな芭蕉の葉のずたずたに裂かれながらも、だらりと、ゆるやかに垂れ下がった形には泰然自若とした態度が見える(引用)」と書いていてとても精緻な表現だと思った。

 色鮮やかに咲いている花でなく、枯れゆく葉に幽玄の美を感じるその感覚が好きだ。冒頭に書いたように、四季の移り変わりを微細に感じ取る日本人ならではの美的感覚だと思う。

 

 自分は様々な方法で表現をすることが生き甲斐であるが、踊り、小説、料理等の何をしているときもこの感覚を忘れないようにしたい。そうしてそれらを守っていくことが自分の人生に課された役目のような気がする。たとえ今周りに求められていないと感じても、長い目で見て、目に見えない宝を守っていくことに誇りを持って。

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