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色々な考えが頭の中で渋滞してどれから言葉にして良いか分からない

 色々な考えが頭の中で渋滞してどれから言葉にして良いか分からないという感覚が、十代の初めの頃から二十代半ばくらいまで強くあった。そのせいで自分の中でしか繋がっていない出来事を脈略なく発言してしまい、話し相手を困らせたり訝しませたりすることが多かった。質問を勝手に深読みし過ぎて何歩も先へ進んだ回答をしたり、あらゆる情報を精査するのに必死で会話の途中で黙り込んでしまうこともあった。それから誰にも伝わらない例えもよく使った。というか今でもその傾向はある。ベルセルクの39巻の台詞をいきなり引用したところで多分熱心な読者にも伝わらないだろうけど、どうしても言及せずにはいられない瞬間があるのだ。
 思いついたことを全て思いついた順番で徹底的に喋りまくっているような人がたまにいるが、僕にはそれがこの感覚への上手い対処法には感じられなかった。一応は伝えたという達成感は得られるかもしれないが、ノイズが増えて本当に伝えたいことの重要度が下がる気がしたのだ。かといって根暗や人見知りをあえて公言するという処世術を採用するには、僕のプライドは高過ぎた。それは単に努力の放棄にも思えたし、根本的な解決策になっていないとも感じた。

 おそらくこの辺りのコミュニケーションスキルは、学校の友達や職場の同僚との付き合い、あるいは恋愛なんかを通して磨くのが一般的だろう。しかし僕はどちらかというと、映画や小説といった物語を通して「何かを伝える」という行為について学んでいった。商品化されているのだからある意味当然なのだけど、生身のコミュニケーションよりも情報伝達として洗練されているように感じていたわけだ。どの情報をどのタイミングでどのような形で出すか、自分の意図した印象の与え方や主観を交えない客観的な表現方法を、僕は感覚的に身につけていった。
 もちろん商品だって完璧ではない。例えば下手な小説では読者と筆者の興味が乖離していくことがある。「いや、そっちに話が進むのかよ」となるのだ。一旦保留されたかのように見える出来事について、後でちゃんと顛末を書いてくれると期待しながら読み進めるとそのまま終わってしまうのである。これは映画でも同様だ。
 現実での人との付き合いにこの物語的な感覚を併用するのは、あまり褒められた行為ではなかったと今ではちょっと反省している。会話は相互のコミュニケーションであるが、それに対して映画や小説は一方的だからだ。日常生活において「こちらとしては情報伝達のベストは尽くして責任は果たしてるつもりなんで、あとはそっちで自由に解釈してください。あ、別にどう受け取ったかを知らせてくれなくてもいいっすよ」という僕の態度は、あまりにもストロングスタイル過ぎる。少なくともそんなスタンスを面白がってくれる人は田舎にはほとんどいない。

 色々な考えは今でも渋滞するが、もうそれが通常状態なので別に動じることはなくなった。交通整理して必要なものだけをわりに素早く引き出せるようになったし、そもそも渋滞してしまうような想定外のシチュエーションに出会う機会は減ってきている。分かり合えそうな人と喋る時にはそれとなくジャブを打って様子を見るし、今世では縁がなそうな人に対しては口と心をちゃんと閉ざす。ちなみにベルセルクは全く読んだことがないので、なぜ例えとして浮かんだのかはよく分からない。要するにそういうランダムな情報が常に頭をグルグル巡っているわけだ。脳が保存しておいたものがこのタイミングで出てきたのだから、何かしら意味があるのかもしれない。

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