あまりにも有名過ぎて通ってこなかった作品
先日、ずっと読まなければならないと感じていた『百年の孤独』をついに読んだ。厨二心をくすぐるなんとも格好良いタイトルである。ノーベル文学賞受賞者のガブリエル・ガルシア・マルケスの世界的な名著で、長らく日本では異様に分厚いハードカバーしか存在しなかったのだが、少し前に文庫化されたので手に取ってみたのだった。近日中にNetflixでドラマ版が公開されるようだ。あちこちで小難しい考察・解説や他人の感想に触れる前に、自分の考えをまとめるためにこの記事を書いている。
率直な感想は「誰が誰だか分からん」である。百年くらいの時間が経過する間に親から子、子から孫、孫からひ孫へと家系図が広がっていく一族の話なのだけれど、かなり頻繁に彼らは子供に同じ名前をつける。「アウレリャノ」というのがその際たる例だ。直径の親族の中だけでも既に重複しているのに、彼の合計で十七人いる婚外子の名前が全部アウレリャノなのである。一応は差別化するために毎回フルネームで記述されてはいるのだが、細かい外見の描写はないので映像として想像するのが難しく、どうしても頭の中で一緒くたにならざるを得ない。
また、独特な文章のリズムには最後まで慣れなかった。この小説は基本的には現実の話なのだけれど、空飛ぶ絨毯が出てきたり登場人物が天に召されたり、随所で超常現象がなんの説明・解説もなく発生する。このように非現実を混在させるマジック・リアリズムという技法については充分承知の上で「いや、それを一行で済ますのかよ」と感じるような文脈の流れが不自然な箇所があまりに多かった。六十年代にスペイン語で書かれた小説なので、単に翻訳上の無理や齟齬を疑ってしまった。
なんだか悪口ばかり書いている気がするが、おそらくここで指摘した点は全て意図的なものである。亡くなった双子を埋葬時に混同したり、バナナ会社の存在が忘却されたりと、作中の人物が特定の事象について誤認している描写にそれが示唆されている。読者の混乱があらかじめ想定されているわけだ。読んでいる途中でそう感じたので、僕は常に完全に状況を把握しようとはせずにページをどんどん捲っていった。前述したように文章のリズムには全然慣れないので疲れるのだけれど、展開が速い上に突拍子がないため、振り落とされないためにはある程度勢いが必要なのだ。まあ単に僕の認識能力や歴史的背景への理解が欠落している可能性も充分にあるけれど、とにかく長さのわりにはあっという間に読めてしまった。
小説にせよ映画にせよ、あまりにも有名過ぎて通ってこなかった作品をついに読んだり観たりすると、それだけでちょっとした達成感があるものだ。そんな作品はまだまだ沢山ある。僕はいい加減『カラマーゾフの兄弟』を読まなければならないし、『十二人の怒れる男』を観なければならない。