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根暗で猫背で友達のいないネット民

 よくインターネット上で挙げられる教師の残虐な行為として「はい、じゃあグループ作って〜」という強制イベントの施行がある。学生側に課される多大なストレスに対し、発言する側は結構カジュアルな場合が多い。
 大学時代、何かの講義でこのイベントが発生した。僕は近くに座っていたという理由だけで、全く面識のない女の子二人と同じグループになった。講義の内容については完全に忘れてしまったのだけど、その時は事前に与えられていた課題を発表してお互いに評価するという形式だった。発表後にはそれぞれに対するフィードバックを指定の用紙に書き込んで本人に渡した。そこには複数の項目に対する五段階評価と記述での感想・総評の欄があり、僕は自分に対する評価を確認した際にひどく面食らった。二人の女の子は僕の全ての評価項目を最高の五にしていたからだ。ちゃんと評価をするつもりなんて最初からなく、よく知りもしない奴から変に恨みを買いたくないという心境が透けて見えた。僕は自分が基準を三として二や四なんかも使って彼女達を評価したことが馬鹿らしくなった。
 勿論、楽観的に考えることもできる。その女の子二人にとって僕の発表は本当に素晴らしいものだったのかもしれない。しかしそんな風に考えられないのは、僕が特別な情熱を持たずにその課題を適当にこなしていたからだ。「こんなものを高く評価しないでくれよ」と感じたわけである。まあそんなスタンスなのに他人を結構シビアに評価している僕の人間性も大概だけれど、即席のグループではこの手の認識の差異やコミュニケーションの齟齬が起こりやすい。ゆえに根暗で猫背で友達のいないネット民にとっての格好の話題となる。

 小学生の時にも似たようなことがあった。当時のクラスでは定期的に読書感想文を挿絵付きで提出しなければならなかった。ある日、担任の教師が絵のクオリティが下がっているとホームルームで苦言を呈した。僕は思い当たる節があったので「確かに最近手を抜いてたな」と、悪い例として挙げられないかちょっと心配だった。すると担任は僕の感想文を取り上げてみんなに見せた。そして、良い例として紹介しながら色の塗り方なんかを褒め称えた。僕は想像していたのと全く逆の展開に面食らったが、その驚きを誰とも共有できなかった。「あんなもん適当だよ」と言いたかったのだけれど、嫌味に聴こえるかもしれないので黙っていたのだ。

 評価というものは得てして曖昧なものである。プロフェッショナルなスポーツや大企業の製品開発のように、厳格なルール・基準とそれをジャッジするシステムが構築されている世界ですら、時には物議を醸すような事象が発生する。この傾向が芸術のような主観的な分野になればより顕著になるのは当然である。だからカニエ・ウェストがグラミー賞の会場で、受賞したテイラー・スウィフトの目の前で「ビヨンセが獲るべきだった」なんて言ったりするわけだ。

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