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愛でもなく(義務でもなく)親切な人になろう

書評で紹介されていた、頭木弘樹さんのエッセイ集「口の立つやつが勝つってことでいいのか」を読みました。
後から知ったのですが、こちらのエッセイはnoteで連載されていたそうです。最近紙の「積ん読」が増えつつあるので、noteで読めばよかったかもしれません。でも知らなかったことだし、こちらの本を一気読みして積ん読からまたたく間に消えた様が清々しかったので、まぁいいや。

どのお話も、自分が考えたこともないような視点で書かれていて、とても新鮮に感じました。特に印象に残ったのが、以下のエッセイです。

以下は、頭木さんのエッセイの筋とは、多少ズレるかもしれません。

私は割といつも周囲の人に全力で接するタイプだと思います。仕事では目の前のお客様や同僚に。家庭では夫や子ども達や両親に。

仕事関係では、個々の方はこれを評価・信頼してきてくれたと思います。
以前「あひるさんみたいに、仕事ぶりに愛情を感じる人は初めて見ました」と言われたことがあります。休職前の面談で、普段直接話すことのない人からのコメントでした。それだけ私の話には仕事愛が溢れていたようです。でも、その愛をもって仕事に打ち込むことが、当の私にはしんどく、今の休職に至っています。

また家庭は、愛や信頼による精神的な支えであると同時に生活の場でもあり、家事などの雑務もあふれている場所です。家の用事は仕事ではないので終わりがありません。それらを多く担当する身としては、自分がしていることが「愛による無償の奉仕」なのか、「ただの義務」なのか、区別がつかないな、と感じることがあります。
例えば、疲れ果てている時に息子の持ち物の名前つけを頑張ってやったとして、「愛情からやったことではないので、意味がなかったのではないか」と自己嫌悪に陥ることもあったりします。名前はきちんとついているのだから、それで用は足りるし、息子は「ママつけてくれたんだぁ」と思うことでしょう。それなのに、愛という言葉にはどこまでも振り回されてしまう。

今後も周囲への接し方は大きく変わらないと思いますが、心の持ちようとして、「愛をちょっぴり少なめに」して「親切を多めに」するというのは、私の生き方を軽やかにする一つの指針になるように思いました。

このエッセイは何度か読み返して、自分のものにしていきたいと思います。

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