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「反出生主義」は少数派であり続けるか

はじめに、巷でも最近俄かに注目されるようになった「人間は子供を生むべきではない」といった思想、いわゆる「反出生主義」に私は大きな共感を抱いている。

それは主に生まれてくる子供の未来を案じてのため(病気障害の有無、人生の不幸を感じる可能性、地球環境の悪化…etc)であり、ある種の「良心の呵責」である。個人的な信条としては今後一切変わるものではないと確信しているが、この思想が世間の多数理解に達しているとは到底思われない。いくら少子化が進展していると言っても、このような思想信条に基づくもののようには思われないし、私のような人間は未だに少数派の域を出ないようである。

ただし、これは「全ての人間」が苦痛・不幸を感じるべきではないという根本的な思想に立脚するもので、現時点において生存する人々の存在を不要と考えるとか、まして子供を産んだ人を傷つけるような思いを有しているとか、そのような事実は存在しないし、存在してはならないと考えている。

ここで、ベネターなどのいう反出生主義の哲学的な議論がどうとか、その内実の正しさがどうとか、そういったことを取り上げるつもりはない。
ただ、倫理的と言えば堅苦しいが、もっとマイルドな「素朴な感情の延長」として存在する思想信条である「子供を生むべきではない」という思想について考えてみたいのである。

まず、私の上記したような思想は私自身が幼少のころから漠然と抱いていた実感にほかならず、またそれは私が先天的な障害・持病をいくつか抱えていたり、虚弱体質のために思うような生活を送れなかったりした経験が大きく影響しているであろうことは付言しておかねばならない。痛みや苦しみで憔悴し、満足のいかない自身の身体に煩悶としながら、寝床に伏せていつも考えていた。
「このような人生を自分の子供に送らせるなんてことがあってはならない」、と。

さて、この頃になって初めて、いわゆる「反出生主義」は当分一般的な「真理」とはなり得ないのではないか、と考えるようになった。すなわち、何か人類全体の生存を脅かすような実存的な不幸が発生でもしない限り、いやそのような事件が起こったとしても尚もしかすれば、反出生主義はこの先においても少数派でありつづけるのではないかという思いである。

正直、これまで自分の思想は少なくとも多くの人が「理解は」してもらえるものではないかというように考えていた節があったのだが、私が周りの人々と談議する中で、またネット上で「反出生主義」に対する批判や不快感情をあらわにしている人々の言葉を目にして、それは誤りであることに気が付いた。
私やネット上で私と同様の考えを発信している人々と、それ以外の人々との間には、思想存在上の明確な断裂が存在する。
この断裂は、政治分野で保守とリベラルが一向に交わらない政治思想をぶつけあっているトピック(例えば平和主義や安全保障論に関して)や死刑の存廃問題と似ているようで、しかし本問題のほうがもう一次元深刻な埋めがたい差が存在しているように思う。

これは端的に言えば、「実感」の有無と共感性、もしくは本件に親和的な理性的思考力による差であると考えている。
ここでいう「実感」というのは、現実的な苦痛や不幸に対する自らの経験感覚と考えてもらえれば良いと思う。その状態が経験的に「分かる」ということ。また、共感性は自分の子供という架空の存在の感覚を自らのものとして受け止めることが出来る状態であり、俗にいえば憐憫の情のようなものであろうか。
対して理性的な思考力に関して言えば、1つにベネターがしたような分析哲学的な理解であろうし、そのようなプロセスを経ないとしても、反出生主義的な思想を「理解」し、納得できるような親和性を有する思考による人もいるであろう。
「実感」と共感性は、私が先に述べたように、素朴な感情の延長として存在するのであろうし、理性的な理解という側面からのアプローチにも共感性というものが少なからず要求されるものであるのかもしれない。

ここで、「実感」や共感性がないからと言って、また「本件に親和的な理性的思考力」が無いからと言って、その状態よりも私の思想が優れているなどとは決して思わないのであり、ただ単に差異が存在しているという程度に受け取ってもらうべきものだと思う。性格や身体能力、生まれ育ってきた環境などが各人で異なるのと同様である。
だから、存在しないものは存在しないのであり、ある意味で「しょうがない」ことなのである。これを強制しようとすれば理性によることしかないが、これまたそのような(本件に親和的な、という意味の)理性が存在しない人には「理解のしようがない」のである。

この点、「反出生主義などと言うものは人生の落伍者の恨みつらみであり、不満と復讐の矛先をこの社会と(現に存在する)世界、そして未来世代へと向けているに過ぎない」といった類の言説をネット上でいくつも目にしたことがあるが、これは一面においては正しいと思う。なぜなら「人生の落伍者」的な人々はその苦難に対する「実感」があるのであり、そこに共感性が統合されれば、不幸の再生産を拒否する志向(あえてこの言葉を使用するが)、に傾いても不思議ではないからである。
ただ、反出生主義者を語る一部の人格攻撃者であったり、無差別殺人を行うような形で社会に復讐しようなどとすることはもってのほかであり、ほとんどの反出生主義者はどこまでいっても消極的、または不作為という形での意思表明をすることしかできないであろうことは理解されなければならないはずである。

ゆえに、我々とそうでない人々の考え方はどこまで行っても平行線をたどるであろう。ここに、本記事を執筆しようとした動機がある。正直、インターネット上で交わされている議論(しばしば独善的な意見表明にもなりうるのだが)は、お互いの前提を慮ることなく、ただ「理解できない存在」として対峙してしまいがちのように見受けられる。これが哲学的な俎上の議論であれば、ある種自然な流れで議論の前提が整理される必要が出てくるし、表明された考え方が評価・批判のすべてであって、より建設的な議論へ向かわれる(べき)ものということになってくるが、これが「素朴な感情の延長」として存在するとなると、論点の食い違いが自然に生ずるし、議論は混迷を極め、泥沼化さえする。
例えば、本記事では「子供を生むべきできではない」という言説へのよくある反論として存在する「生物学的な本能に基づく生殖欲求」については言及していないが、これは論者に対する”反論としては”あまり効果的ではない。
「子供を生むべきだ」という考えが生物学的な本能に基づく生殖欲求に由来することは重々承知しており、本件はその先の、むしろ感情であったり理性であったりという「人間的な」部分についての論点である。
この場合、反論者が的確ではない論点に言及してしまったミスはそれとして、このままでは再反論者のほうにも問題が生ずる。本人は、自身に「本能に従って子どもを生むべきだと感じる」といった「実感」が(無意識であれ)捨象されていることに気づかず、一見成功したかに見える再反論は全く建設的な効果を生ぜしめないのである。
だからこそ、相手に在るものと無いものを双方は理解した上で議論しなければならない。
今まで健康に問題なく生きてきた人に対して「子供がかわいそうだ!私はこんなにつらい思いをしている!」といったところで、健康な人は自分と同じように健康な人が生まれるというこれまた「実感」に由来して子供を生むはずであるから、あまり効果的ではないだろう。
逆に、「反出生主義者は子供の敵!」と門前払いしては、なぜその人が反出生主義のような「理解できない」ような主張をするに至ったのか、ついに分からないままであろう。そして私自身の考えによれば、生まれた自らの子供が不幸であることを悟った瞬間に「こんなはずではなかった」などということにはなってほしくないのである。

加えて、この記事を書こうと思ったもう1つの動機は、反出生主義というトピックが盛り上がるにつれて、それが哲学・倫理学分野の創出であるとしても、私のように「素朴な感情」から出発し、かつそれに終始しうる思想が一緒くたになってしまいつつあるように感じたからである。また、その際に反出生主義に至るプロセスとして精神・心理的部分の影響も確かに存在するように思われ、この点の研究も非常に興味深い。

雑文ではあるが、以上、私が考えていたことを文字にしてみたものである。この記事がどなたかのお役に立てれば心より嬉しく思う。

最後に、読みにくく拙い文章の羅列の上、まとまりの悪い状態で投稿することになってしまった本記事を最後までお読みいただいたこと、心より感謝申し上げます。
貴重なお時間を頂戴し、誠にありがとうございました。


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