思想家
思想を、価値観を形にする。その思想や価値観が自分のものと近しければそれだけ見ていて心地よい。自分の中にぼんやりと輪郭を持たずに存在するそれが、他者によって明確な存在を有する時。
さらに言えば、その形、表現が美しいものあるいは面白さを感じられるものだとなお良い。僕の見てきた限りでは、その形は文章であることが多かった。
でも米津玄師は思想を音楽にしている。僕はそう感じている。
今回まず彼のビジュアルに打ちのめされて全然曲が耳に入ってこないという事態になったのだが、僕はこの姿も非常に好きだ。性別に縛られることなく自分の表現したいことを表現する。それを体現したような、高身長の男性がスカートとパンプスを身につけた格好というのは、もはや僕にとって一種の理想像だった。子供っぽい感想として「僕もああなりたい」くらい思った。
「くだらねえ」「どうかしてる」「まともじゃないよあなた方」なんていう非常に見下したような言葉が並ぶのだが、僕はこういう曲が好きでたまらない。死神を聞いた時同様口角が上がる。
たぶん、僕もそう思うからだ。インタビューで米津さんはSNS上の論争を「どうかしてる」と言ったが、同感なのだ。正義らしきものを掲げて連ねられた言葉の、なんて攻撃性の高いこと。僕は心のどこかで、正義と悪は表裏一体なのだと思っている。悪になりたくないのなら正義に染まってはいけないとさえ。
POP SONGは、その両者をくだらねえと切り捨てる。「踊る阿呆に見る阿呆我らそれを端から笑う阿呆」と歌ったLOSERを思い出した。
どいつもこいつもどうかしていてくだらねえ。そう思う自分もまたくだらねえ。なんて共感の元となった考えすら、米津さんの曲にもたらされた価値観に思える。
「両義性」という言葉を今回初めて知ったけれど、僕はこの言葉が好きになった。
ひとつの物事に対して相反・対立する解釈ができること。同じ物事でも見方を変えれば逆の意味に受け取れること。僕は何か考える時これを大事にしている。
ネガティブなことを考えてしまうときには見方を変えてポジティブに。その逆も然り。あまりポジティブでいても、それから外れたことが起こると悲しくなってしまう。適度な悲観的予測は自分の心を守ってくれる。
「コップに半分の水がある。半分も水があるのか? 半分しか水がないのか?」
僕は両方の解釈を自分のものとしていたいのだ。
MVの最初で、兵士から変身した米津さんが、他の兵士が拾っていたコントローラーを必死そうに取り返す。終始余裕たっぷりな彼が慌てるのはこのシーンだけだ。それほど大切なのだろうなと思われたそのコントローラーは、MVの最後で「もういらない」と言うかのように、他の兵士に投げ渡される。
米津さんが過去にTwitterで、「死守せよ、だが軽やかに手放せ」という言葉を引用したのを思い出した。
大躍進を続け次々新しい表現を見せつけ、どんどん変わっていくように見える米津玄師だが、きっと根底のものは変わっていないのだと思う。POP SONGを聞いて、僕はそう感じた。僕が好きになった米津玄師がそこにいる。
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