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「読後の感想を書く」ということは「読書をする」ということの「③必要条件ではない(が、十分条件である可能性がある)」

僕は教育課程における小説の読み方に毒されている。
教育課程における小説は「その作品の表現や描写から問題を定義できるこる」「その問題には一定割合の人が合意する解答が定義できる」そして「解答は、パターンやテクニックで攻略できる」、そういう無機質なものだと思っている。解釈に多様性はなく、表現のブレはあっても、準備された解答以外の解釈は、設定上「間違い」になる。教育課程のレールに乗る僕には余裕がなかったので、とにかく失点しないとか、相性のいい問題で他人を出し抜くとか、そういう「受験テクニック」でしか小説と向き合ってこなかった。
「国語の問題、続きが気になって、元の小説を読むとかしなかった?」と、伴侶に聞かれた。僕はこの通り全くしなかった。なるほど、国語が好きな人は、そうやって小説を読むのか、と思った。
思い返してみれば、読書感想文もそうだった。
「400字詰め原稿用紙5枚以上の分量で書け」という要件に合わせるために、適当に書いた。「本を読む前と読んだ後では、自分の中で何が変わっているはずだ」という謎の前提を置いて、とりあえず「書けてるね」と担任が思う程度のクオリティで仕上げればよかった。幸い、同年代の中では文字を読める方だったし、書ける方でもあった。クラスに一人はいる異常に文章表現が上手い奴には敵わないが。
ただ、正直読書感想文は嫌いだった。本を読んでも、原稿用紙5枚分の感想なんか浮かばないからだ。なんなら今も嫌いだ。
今の会社でも、新人のときに読書感想文を求められた。課題図書は『入社1年目の教科書』。結局色々あって提出しなくても良くなったが、きっと日本のどこかには自己啓発本で読書感想文を書かせる会社があるのだろう。

一応読んだ。感想はなかった。少なくとも、僕はこの本を鵜呑みにして実践できるような謙虚な人間ではなかった。
ビジネス書や技術書とはいわば「教科書」である。特定のドメインについて、何らかのパターンやテクニックを「学ぶ」ためのものだ。だから、そういう本を読んだら、読むことで得られる何かを言語化する必要がある。これが「学び」と言われるものだと思う。
読書感想文の話。僕は読書感想文に対して、こう向き合っていた。もしかすると、僕以外にもこうして向き合っているために、読書感想文が苦手だったり、嫌いだったりする人がいるのではないか、とも思う。いたら友だちになろう。
読書前と読書後では、心境・価値観の変化がなければならない。
読書感想文では、読書による「学び」や「心境・価値観の変化」を言語化しなければならない。逆に言えば「読んでみたけど心境は特に変わらないし、価値観も別に変わることはなかった」というのは読書ではない。
お前に変化を与えない本との出会いは無価値である。
最近になって、ようやくこの向き合いから開放されそうになっている。
心境・価値観の変化ではあるが、これは特定の書籍に向き合って生じる変化とは言えない。「読書経験」という、もう1~2個抽象度が上の層における相互作用の結果だと思う。
「学び」を得るための本はごく一部である。
本を読むことで「心境・価値観の変化」が伴う必要はない。
「ふうん……」で終わる読書も読書である。
お前に変化を与えない本との出会いにも、何らかの価値はある。
そういう気持ちでインターネット概念が書いた本を手に取った。

先程読み終えたが「ほう……こういう感じね」という「印象」だった。感想を書こうと思えば書けるかも知れないが、でも多分書かない方がいい。言語化とは具体化であり、今の僕には心境から情報を削らないように言語化する方法を持っていないので。
これを読む前と後では価値観は変化しない。基本的に人間は愚かだと思っているし、なんとなく生きにくいし、ダ・ヴィンチ恐山は仮面をつけた面白い奴という評価もそこまで大きく変わらない。
でもまあ、それでもいいんじゃない?と思う。そういうもん。

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