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岡本太郎展と爆撃聖徳太子と秋

きっと僕の人生を道に例えれば、舗装されていない真っ直ぐな道だと思う。
義務教育では成績優秀、ほとんど先生の手を煩わせない「いい子」を演じてきた(つもり)だし、一度も浪人・留年をせずに大学院を修了した。母子家庭ではあったが運良く学費の免除と給付型奨学金をもらいながら生活でき、なんとか就職先を見つけ、あーだこーだと文句をつけながらも働きながら妻と出会い、明日の食い物に困らない暮らしを過ごせている。失敗はしてきたが、周りが共感するような挫折もない。平均的には恵まれた人生だ。
ここまでの文章でちょっとイラついたら、ここから先を読まないほうが良い。きっとあなたと僕は気が合わない人だ。僕とは別の世界で、幸せであることだけは祈らせてほしい。
述べた通り、
僕は自分の人生が、平均的には恵まれている方であるという自覚はある。でも、実際のところ、僕は言語化できない生きにくさを感じながら生きている。この生きにくさが仇になったことはないし、誰に伝えても分かってもらえるものではないから、詳しく書くつもりがないだけだ。そういう意味では舗装は甘いかもしれないし、エネルギー効率が悪い車に乗りながらも、「真っ直ぐな道」を走っている。
真っ直ぐな道の楽しみ方を、いくつ思いつけるだろう。僕はスピードを出すくらいしか思いつかない。楽しい人生にするには、このまま真っ直ぐな道を走りながら、真っ直ぐな道の楽しみ方を開拓するか、無理やり枝葉をつけたり、歪めたりしてみるような発見をするのが良さそうだ。
とはいえ世帯を持っているといきなり「絵で食っていこう」とか「物書きとして生きていこう」と言うには勇気がいることも確かである。無理のない範囲で歪んだ道を作るにはどうしたらいいだろう。
そんな事を考えても何にもならないので、とりあえず自分の興味のないものに触れることにした。今回は2つ。芸術と、文学だ。

岡本太郎展を見て完全敗北した話

岡本太郎は僕が3歳の頃にこの世を去っているが、小さい頃母親が「芸術は爆発だ!」とよく言っていた。CMやテレビに顔を出す機会も多かったらしいし、きっとそれに影響されたのだと思った。
『太陽の塔』は写真で、『明日の神話』は渋谷で実際に眺めたことがある。
ただ、他の作品を自分の目で見て、岡本太郎との「対話」、言いかえれば「闘い」をしたことはなかった。
今年、東京に岡本太郎の作品が並ぶことになった。見てやろう、そして岡本太郎とは何者だったのか、どんな人生を歩んだのか、知ってやろうと思った。
待っていたのは岡本太郎の人生ではなく、岡本太郎そのもの、命がそのままそこにあった。
大体1時間半、個人的にはじっくり回ったつもりである。結果、ひどく疲れた。
これまでもミュシャ展をはじめ、上野近辺の美術館の企画展は、あれば積極的に見に行った。見に行くことで審美眼が養われることも、美学や美術史学に明るくなることは決してないが、それでも気分は落ち着くし、面白いと思う。例えばゴッホ展。たとえばクリムト展など。

こういうのを見たときは別段疲れることもなく、むしろ心が満たされるような、有り体に言えば「明日も頑張るか」くらいの気力をもらうのだが、岡本太郎展のあとは、すぐに家に帰り、布団に横にならざるを得なかった。
社会への反骨と生命の謳歌、何より肉体ではなく美術作品になって生き続ける岡本太郎に、「なんだ、お前は」と言われて、怯えて帰ってきたのだった。
二度と行きたくないが、もう一回行かないといけない気がする。

『爆撃聖徳太子』

自宅には妻と共有する本棚がある。積読のスピードは僕のほうが上で、その半分は統計学やマーケティングの本、面白いと思った漫画なわけだが、統計学やマーケティングの本は読むべき本のパターンがだいたいわかってきたので、いい加減捨てるか売るかしたい。
妻の本棚には小説が多い。影響されて、僕も古典的なフィリップ・ディックやホーガン、アーサー・C・クラークなどを収めてみたが、昔から小説を読む体力がなく、結局大半を読んでいない。Wikipediaのあらすじで満足してしまうのもよろしくない。
妻の持つ本の一冊に、非常に強い語彙を持つタイトルの本を見つけた。
町井登志夫『爆撃聖徳太子』。なんだ、これは。
妻にあらすじを聞くが「聖徳太子が、爆撃する話だよ」という。あらすじでもなんでもない。そもそも日本で爆薬が確認されたのは13世紀ほどではなかったか。「爆撃」という語彙が飛鳥時代にあったというのか。とても興味を惹かれたが、中身を見ることはしばらくなかった。
ちょうど昨日、ふと『爆撃聖徳太子』の背表紙を見る。表紙はどうなっているのかと思い、手に取る。

だれだ、これは。曰く「聖徳太子だよ」という。
今の学習指導要領では「厩戸皇子」や「厩戸王」と教えられるのだろう。僕の義務教育の時代は、まだ「聖徳太子」で教わり、以下の記事に出てくる肖像だった。

高校時代だったと思うので、2000年代後半から2010年代初頭だったと思うが「聖徳太子はいなかった説」などが食卓で話題になることもあった。今では実在こそしたが、その実績に脚色がある、という立場があるらしい。
とは言え表紙を見た。僕の中の「聖徳太子」は、紙幣になった肖像画か、増田こうすけの「ギャグマンガ日和」に出てくる青いジャージの姿で出てくる。その中に新たな「聖徳太子」像が現れた。
読んでみると、一応文献で追いかけることのできる範囲での歴史的背景は踏襲されている。参考文献には現代語訳を受けた日本書紀や『隋書』などが並んでいるし、聖徳太子は「日出処の天子、日没する処の天子に書を致す。つつがなきや」で始まる親書を小野妹子にわたすし、妹子は隋に派遣されるし、煬帝の返書を百済で紛失するが恩赦される。煬帝は宇宙人ではないが、史実の通りに怒る。Wikipediaによれば煬帝は618年に死ぬわけだが、一応年代的な整合性を、当時の隋、高句麗、新羅、百済、倭国の間で取っている。
ただし、聖徳太子は相当のキレ者であり、小野妹子は聖徳太子のキレる頭を評価しつつも振り回されるし、高句麗では隋軍を相手に剣も振り回す。
そして、マジで聖徳太子と小野妹子は、隋を爆撃する。なぜ爆撃することになるのかは、ぜひ本編を読んでほしい。本当に爆撃する。
実際読んでみると、史実として追いかけることのできる範囲を抑えながら、1500年という歴史に脚色された聖徳太子の超人性を活かして、1500年で散逸した史実と史実との間のギャップを、面白い解釈で埋めていく。二段組で決して少ない文字数ではなかったはずだが、読み飽きることなく、4時間程度で読破した。

感想は、「本当に爆撃した」だった。

久しぶりに小説を読んだ

こんな記事が話題になった。この記事は本当に面白いライターが書いているし、等身大の「本を読めない人」が出てくる。それでも本を文字通り読み切っている。
ここに出てくる人ほどではないが、僕も小説を読むのはつらい事がある。ビジネス書や技術書ならつまみ読みしても全体像を理解できるが、小説はそうはいかない。少なくとも途中から読み始めることは、大半の小説では想定されていないと思う。

懐古しない老後


統計学やデータ分析に向き合い続けすぎて、統計学やデータ分析以外で脳に刺激を与える機会を自分からどんどん奪っているなと反省した。小説も読もうとしない限りは、読むのがつらいままなのだと思った。
僕は統計学やデータ分析が好きで、それを仕事にしている。それはそれで楽しいが、本を買おうというときは、「仕事に必要な知識」を優先して手に入れようと思ってしまう。ふと定年後の自分を想像したとき、それらの本にどんな価値があるのか、と思った。自分のやってきたことの意義を振り返るのか、懐古厨のように。
こう考えると、今のうちに、データ分析や統計学以外を楽しめる脳を作っておかないと、後々空虚な自分と過去に押しつぶされかねないなと思った。良い本を読んで、想像力と感受性を高めよう。人生は多分長い。結果的に短かったとしても、やはり死に向かって走り続けるのが生き物である。どうせ死ぬのだから、その間に可能な限り「多様な世界」を見たほうが良い。量の話ではなく、質の話である。
まとまりがなくなったが、岡本太郎も『爆撃聖徳太子』も、昔の自分であったら触れることもなかっただろう。懐古厨にならないようにする。その時代その時代の良さも、過去の美しさも平等に楽しめるクソジジイになりたい。


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