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【読書感想】いい子のあくび 高瀬準子

━━私の親切をあてにして、ふてぶてしく甘えているの?
見ず知らずの人に対してそんな苛立ちを感じたことは、
恥ずかしながら何回もあって、その度に
「これくらい許そうよ」「心が狭すぎるよ」と自分を窘めていました。
ふと気づいたから、この先大変にならないように先手を打って対処したり、
回避できるように誘導したり。
誰かに頼まれたわけではないけれど、でも気づいてしまった以上は
気づかなかったふりもできないから……と動いてしまう。
そういう人は、他にもいるのだろうと思います。

公私共にわたしは「いい子」。人よりもすこし先に気づくタイプ。わざとやってるんじゃなくて、いいことも、にこにこしちゃうのも、しちゃうから、しちゃうだけ。でも、歩きスマホをしてぶつかってくる人をよけてあげ続けるのは、なぜいつもわたしだけ?「割りに合わなさ」を訴える女性を描いた表題作(「いい子のあくび」)。

集英社 いい子のあくび

日常で言えば、歩きスマホをしている人をよけて“あげる”度に、
(私がよけなかったら危なかったのに)とざらついた気持ちになる。
そんな経験があったからこそ、私はこのあらすじを見て、
「読まなきゃ」と感じました。
この擦れた感情は、友達に吐露してしまうと
「心が狭い」「不寛容」「面倒くさい」などの印象を与えかねなくて
苦しくなったとしても、頑なに一人で抱え込んできたものでした。
だからこそ、私は『どうにもできない不寛容についての共感相手』として
この本を読んできました。

『いい子のあくび』を読み終えた今、私は少しだけ、
「親切をあてにされても(当然のように求められても)親切を貫く」ことに
抵抗がなくなってきました。
あの結末を見ているから、というのは否めませんが、
それ以上に、「割に合わないとしても自分のために親切でいればいい」と
思えたからかもしれません。
前方不注意な人と衝突してお互いに怪我してしまう前に、
自分が素知らぬ顔で避ければいいのです。
皆が(自分が)無意識にやっていることを、
一度意識してしまうとどうしてもぎこちなくなるけれど
でももう一度無意識にできるようにすれば、
意識に立ち上らなければ、
苛立つことも無いのだと思えたのです。

表題作の「いい子のあくび」はもちろん、「お供え」「末永い幸せ」も、
人に言えない類のもやもやした感情をありありと描いていて、
共感できてしまう自分を少し恥じらいながらも、
心の中の鬱屈とした部分がすっきりして良かったです。


※ここからはネタバレを含む感想を綴ります。


「いい子のあくび」──いい子であり、やな子である

直子は、自他ともに認めるいい子です。

昔からいろいろな人に好かれた。特に親戚の大人たちや学校の先生にはうけがよかったし、男の子から異性として好かれることも度々あった。髪型や持ち物や、直接的に目や鼻や口や耳や、あるいは全てをまとめて顔や、足や手や胸や尻や、わたしに固有の何かをほめる人がいた時、わたしが「いいもの」であることが、その人にとって都合がいいし、気分も良くなるんだなと思ってしまう。

「いい子のあくび」より

確かに、親戚や学校の先生は、「いいもの(いい子)」であることを喜ぶイメージが強い。直子は、「いいもの」と思われて褒められることを、「都合がいいから」「気分が良くなるから」だと冷ややかに見ています。
その人にとって益があるから、私をいい子だと褒めてくれる……そんな見方をしてしまうと、素直に喜ぶのは難しいでしょう。

直子とは少しずれますが、私自身も悪いことをしたら怒られ、
いいことをすれば褒められるという経験の中で、
「いい子でいた方が生きていきやすい」と思い、
いい子でいることが大切になっていたような気がします。
人に親切でいるのは、その人への思いやりじゃなくて、
自分がいい子であるため。
そう思っていた小学生時代のお陰で、
中高生になった頃には、「いい子以外の振る舞い」が
分からなかったですし、そういう振る舞いをするのが
怖かったので、やはりずっと「いい子」でした。
そうやって、「いい子」以外の振る舞いができないまま
大人になっていました。

愛嬌が大事と言われて育ち、それでうまくいったから、自分でもそのとおりだと思っていた。いつもにこにこと、時々分かっていても「分かりません」といい、教えてもらったら「ありがとうございます」とお礼を言うこと。人が人を好きになったり嫌いになったりするのは、こんなことで造られている。それなら、好かれるんだから、好かれていればいい、と自覚していった。

「いい子のあくび」より

そう、「人に好かれて悪いことはない」と知っていて、
人に好かれるコツを知っていたり、その労力を厭わなかったりするならば、
抵抗もなくそれを実行していくのでしょう。
そうやって、「いい子」として生きてしまう。
「いい子」の皮がとても頑丈に、精巧に造られていくのです。

にこにこしようとか、興味を持ってるふりをしようとか、そんなことばかり考えて、わたし、本当に他人に興味を持って話を聞く方法がわからない。興味を持つとか持たないとかの前に、誰の話でも丁寧に熱心に「興味を持って」聞くことが決定されてきたから。話し相手がどう思うかを抜きにして人の話を聞く仕方が分からない。

「いい子のあくび」より

「いい子」の皮を被って生きていくことに慣れすぎて、
「いい子」の中身にまで響くものが少なくなっているのかもしれません。
相手にとっての「いい子」でい続けているから、
相手にとって私はどうなっているか、でしか判断が
つかなくなることもあります。
相手を基準に自分の姿や温度を判断するような、そんな感じでしょうか。

そして、「いい子」の皮の中で、少しずつ自分の感情が燻っていきます。
「いい子」の自分を愛でる人を、「こんな私が好きなんて、中身を見抜けないなんて」と冷ややかに思う姿。
直子が「いい子」であることを僻んだり妬んだり疎んだりする人への、「私は悪くない」という反発心。
直子は、明確に「いい子の皮」を自覚していますし、
自分自身のことを「やな子」と思っています。
「いい子」の振る舞いをしながら、やな子だと思われそうな思考をする、
極端な二面性に、「表裏がある」「本当の私はどっちなんだろう」と
頭を悩ませたりもします。

この二面性も私は共感できますし、他の人も共感できるもので
あってくれたら救われる、と思います。
嘘をつこうと思ってそうなっているわけではなくて、
この人といるときは本気で良いことを言えるし、
あの人といるときは本気で悪いことを言える……という
自分のことながら、自分の本心がどこなのか、
一貫性がなくて怖くなるような感覚は、
私自身にもあることだと思います。

わたしは、わたしが悪い時でも、わたしは悪くないって主張する。だって割に合わせただけだから。いいとか悪いとかじゃないから。わたしはわたしのぶんだけしかやりたくないから。全部背負っていくのは嫌だから。

「いい子のあくび」より

歩きスマホをしている人を避けず、わざとぶつかる直子は、
「自分だけよけるなんて割に合わない」と語ります。
どうせよけてくれるから、と前方不注意で進む人に、気づいたこちらが
対応してあげなくちゃいけない。
そう思い始めてしまうと、やり過ごせない苛立ちに感情を支配されても
仕方ないです。
自分が女だから、ぶつかってもいいやつだと判断されたから、
平気でぶつかられるし、満員電車で肩にスマホを置かれる……。
有り体に言えば、ナメられているからそうなってしまうのですが、
直子はそれに「ぶつかったる」で対抗するわけです。
それは、「いい子」の皮を被って摩耗していく自分を見た、
やな子の精一杯の反抗とも言えます。

人とぶつかるときの直子は、社会的に「良い/悪い」の判断軸を使わず、
「割に合っている/割に合っていない」の判断軸を使います。
個人的に、この自己中心的な判断軸を持つ直子が好きです。
「いい子」にあるまじき理論を、しっかりと持っていて、
それが人間味にあふれている気がして好きです。

なんでわたしだけ、と思う。前を向いて歩いていたのに。顔をあげて話を聞いてきたのに。スマートフォンは鞄にしまっているのに。みんな、いい子だって言ってるくせに。にこにこしていたら安心するくせに。自分が傷つけられたぶん、囚われたぶん、取られたぶん、削られたぶん、薄められたぶん。同じだけを他人にも、と思う。だっておかしい。割に合わない。

「いい子のあくび」より

この語りが、胸にずっしりと刺さりました。
「いい子」でいることで失ったぶん、相手にも求めたいけれど、
それを相手に求めた途端、「いい子」じゃないから、
周りから糾弾されうる立場になってしまうのです。
「いい子だった」からではなく
「いい子でいる」から大切にされたり、愛されたりするのでしょう。
苦しくなって、「いい子」の皮を剥いだら、
思わぬ厳しい弾を撃ち込まれるかもしれないのです。
それを知っているのか、もはや本能なのか、
直子は「いい子」の皮を被り直せるのです。
ラストの展開で、尚も「いい子」が表に出て、
やな子の感情や言葉を封じて対応していく姿を見て、
もう直子はこの生き方しかできないのだろうなと感じました。

「お供え」──当たり障りない人間関係の裏のどうでも良さ

職場の人間関係は、さらっと見れば穏やかで円満なように見えますし、
しかし自分がその中にいると、「当たり障りなく仲良く」しているだけで、
実はとても冷徹な感情を忍ばせてしまっているので、
不思議だなと感じます。
不思議だと思うだけで、その冷徹な感情をなくそうとはしません。
だって、その感情はきっとお互い様で、自分の感情を綺麗にしたって、
相手の感情は変わらないから。
冷たい気持ちを表出させなければ、仕事はそれなりに回るから。

プライベートの知り合いと比べて遥かに低いラインを引いて、職場の人たちを嫌いだと思えてしまう。この確信はなんなんだろう。自分が選んだのは仕事であって人間ではない、自分が選んだ人間ではないから、嫌ってしまってもかまわないと、そういう心理だろうか。

「お供え」より

主人公があまりにも軽率に職場の人たちに、死なないかな、と思うので、
薄っすらと狂気すら感じますが、そこまでいかなくても、
この人嫌だな、とは平気で思ってしまうのです。
「仕事」だけの理由で結び付けられた人間関係で、
しかも私は「仕事」がそんなに好きではなくて、
だから「仕事」によって発生した人間関係も、
そんなに大切には感じられないのでしょう。
憎むまでいかなくても、どうでもよく思えてしまうのです。
もちろん、恩や感謝を感じることもありますが、
吹けば飛ぶくらいのものになってしまっています。
何がともあれ、「仕事」が円滑に回るように、
それなりに人間関係を穏やかにしておく……そんな打算があります。

それを「そんなもんだよ」と軽く受け流してくれるようなお話でした。

「末永い幸せ」──じんしんばいばい

結婚はおめでたいけれど、祝福したいと思うけれど、
結婚式は気持ち悪くて参列できない。

バージンロード、ファーストバイト、新婦による両親への手紙。
形式だからと見過ごせば気にならないかもしれない部分の、
それぞれの意味を理解してしまうと、
「それの、どこが幸せなの?」と思ってしまうのも
無理がないと思います。

そして、長らく結婚したいと思っていた大事な友人の結婚式であれば、
「気持ち悪いから」とも言いにくくて、でもめでたいと思っているのは
真実であって、その葛藤が苦しそうだなとぼんやり思いました。

最後に

私は、この手の物語が本当に好きだと、つくづく思います。
人には言えないけれど、たしかに存在する感情を、
飾ることなく描写して突きつけられると、妙に嬉しくなります。
人間らしい感情だと認められているような気がするのか、
物語として昇華されていることで赦された気がしているのか、
自分でもよくわからないのですが、この手の物語が本当に良いです。
精神的に、健康になれるような気がします。

核心をつかれて、一瞬息がつまるような感覚になる、
そんな読書体験を久々にできて、とても良かったです。

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