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見えない障害バッジと私の話

見えない障害バッジ、というものがある。

見えない障害バッジとは、難病や発達障害、内部障害、精神疾患などの当事者の手によって、目には見えないけれど困りごとをもつ人々も世の中にはいるのだということを啓発するために作られたバッジだ。
詳細は、以下の「わたしのフクシ。」のウェブページを見てほしい。
http://watashinofukushi.com/

私は、当事者用と啓発用と2種類あるこのバッジのうち、当事者用を携帯につけている。
今回は、このバッジとの出会いと、このバッジに対する思いをつづってみようと思う。

私がこのバッジの存在を知ったのは、福祉学部の学生だった頃だ。ゼミの教授に大野更紗氏の『困ってるひと』を読むように勧められ、Twitterで「わたしのフクシ。」の活動にたどり着いたのがきっかけだった。
そのときにはまだ支援者に近い立ち位置にいたので、「こんな苦労をしている人たちが声をあげているんだ!」ということに驚きと感銘を受けて、応援したい気持ちで啓発用を購入した。

その後、紆余曲折を経て、私は精神疾患と健康の狭間を彷徨い歩く迷子になった。
環境によっては健康でいられるが、環境が変われば精神疾患の症状が強くでる。動物からも鳥からも疎んじられたコウモリの寓話のように、私はコウモリだった。コウモリであることが耐えがたく、生きることをやめたいとも思った。そんなときに思い出したのが大野氏の『困ってるひと』(この本の中で、大野氏は「健康」と病気の狭間や制度の狭間をさすらう旅人だった)で、バッジの「当事者」の領域をあえて定めない(困っていることがあれば診断名に関わらずつけてよい)という方針にすがるように当事者用を購入した。

当事者用が届いたときの気持ちは、「こんな私でも、困ってるって言って生きていていいんだ」だった。

精神科で確定診断も出ずに「なんとなく病人」の扱いをされていたのが不安だったが、このバッジをつけてからは、「そうよね、困ってるときだけ困ってるって言えばいいのよね」と気持ちに余裕も生まれた。
当時はまだ私の味方がほとんどいない状況だったけれど、このバッジをつけている仲間がいる限り、そして、同じような苦労をしている仲間がいる限り生きようと思った。

まだまだ知名度も低く、つけていても気がつかれないことが多く、配慮される機会も少ないけれど。そして、そのことで「見えない障害バッジは無意味だ」と指摘する人もいるけれど。
たとえ気付かれなくても、配慮されなくても、つけているだけで勇気をもらえる人もいることが広まってほしい。

そして、この記事を読んでいる皆さんには、見えない障害バッジというものがあることを、バッジをつけている人はなんらかの配慮を必要としていることを知ってもらいたい。

必要としている配慮は人それぞれなので、見えるところにバッジをつけている人を見かけたら「バッジをつけていらっしゃるんですね」などと声をかけて困っていることがないか聞いてみるのがいいだろう。(無視されても、聴覚障害の人がつけている可能性もお忘れずに)

「いいえ、特に配慮は大丈夫です」と言われることもあるだろう。
それでも、気付いてくれたことは、たとえその人からは直接感謝されなくても、私たちバッジをつけている人からは「気付いてくれてありがとう」という感謝の思いでいっぱいだ。

#エッセイ #コラム #見えない障害バッジ #見えない障害