ジェンダー問題に関するイベントでの私の気づき

今回のnoteの趣旨は、ジェンダーに関するトークイベントでの私の気づきを公開することによって、読み手のあなたにジェンダーの問題を「自分ごと」として捉えてもらうことだ。

前もって、いわゆる「性的少数者」と呼ばれている方々にお詫びしなければならないことがある。
この記事では、私の気づき(恥を含む)をより顕著に晒すため、敢えてトークイベントでの時系列順に気づきを書いている。つまり、異性愛文化主義で育った人の「普通」に基づいて大部分を記述している。
そのため、一部文中で配慮のない言動があることを前もってお詫びしておく。

参加したトークイベントは、2018年9月16日の「ジェンダーで考える、やさしい社会」。
イベント情報(趣旨・当日の登壇者など)は、下記のfacebookイベントページを参照してほしい。
https://www.facebook.com/events/2114672058755815/?ti=icl

本題に入る前に、少し予備知識を共有しておこうと思う。
何故なら、この記事で初めてジェンダー問題に触れる人にとっては、未知の用語が多いと、私の言っている問題の意味がわからないからである。

まず、そもそも「ジェンダー」という言葉を、ご存知だろうか。
よくご存知でない方のために、一般的な辞書である広辞苑を引くと、次のように載っている。

ジェンダー【gender】生物学的な性別を示すセックスに対して、社会的・文化的に形成される性別。

「辞書を引いてもよくわからない」というのが正直なところだろう。

ところで、「あなたの性別は?」と問われたら、あなたはどう答えるだろう。
自分を男性だと思っている人は「男だ」と答えるだろう。その「男だ」という感覚は、日本語では一般的に「性自認」と呼ばれ、英語では「gender identity(ジェンダー・アイデンティティ)」と呼ばれる。
この性自認には、男・女以外の多様な性がある。男・女以外は、「性的少数者」と一括りにされることが多い。(彼らはあなたが想像するほど「少数」ではないのだが。)

どうだろう、少しは「ジェンダー」についてイメージできるようになっただろうか。
「いわゆるLGBTのことではないか」と思ったあなたは、なかなか知識があるが、少し違う部分もあるということを伝えなければならない。

人間の「性別」及び「性的指向(恋愛対象だと思ってくれていい)」の組み合わせが、「異性愛(男と女の恋愛)」「同性愛(男同士・女同士の恋愛)」「両性愛(どちらの性別も恋愛対象になりうる恋愛)」と呼ばれるものだ。

LGBT(※)は、レズビアン(同性愛に関する用語)・ゲイ(同性愛に関する用語)・バイセクシャル(両性愛に関する用語)・トランスジェンダー(性自認に関する用語)の頭文字でできた単語であり、主に異性愛の人が「性的少数者」を総称する時に使う用語だ。
LGBTは、トランスジェンダーを除き、「性別」を意味する単語ではない。だが、ジェンダーの問題を語る上では大切な単語だ。

※「LGBT」にはQ(クィア、あるいはクイアと表記)を加えてLGBTQと呼ぶのが適切であるとの指摘もある。
しかし、現時点での私のクィアに対する知識が、記事を書けない程度には不充分なため、誤った知識を広めない意味で、この記事では原則的に「LGBT」と表記させていただく。

さて、そろそろ本題に入ろうと思う。

トークイベント「ジェンダーで考える、やさしい社会」の主なトピックは、
【パネルディスカッション】
・女性とアイデンティティ
・男性とアイデンティティ
・ジェンダーとメディア
・性暴力は誰の問題か
・まとめ:どのジェンダーにとっても「やさしい」社会になるためにはどうしたらいいか
【質疑応答】
であった。(恥ずかしながら、1時間遅刻したので、パネリストの紹介、前提となる定義部分の話、及び、女性とアイデンティティ、男性とアイデンティティの話はきちんと聞いていない)

どの話題でも、それぞれで記事が書けるのだが、この記事では、トークイベントでの望ましい社会のために何ができるかのまとめと、私の気づきだけを語ろうと思う。

まず、トークイベントのパネリストたちでまとめられたのが、「女性と男性の権利の奪い合い」の構図と化している「ジェンダー」の問題を、「(生まれながらの)男」「(生まれながらの)女」の対立の問題として考えるのではなく、「多様な性の問題」として考えていかなければならないということだ。

また、「権利の奪い合い」、これを「取り分」の取り合いにすることをやめなければならない。
例えば、雇用の構造が「男は仕事、女は家庭」という思想が根底にあり、男性は長時間労働などにより育児・介護の機会や権利を奪われ、女性は保育を家庭ですることが前提の保育所数により働く機会や権利を奪われている。
(解決策として育児休業が一般的には挙げられるが、取得すると男女とも昇進で差別されるなどの問題のほか、そもそも夫と妻のどちらが取るのかという問題もあり、結局は権利の奪い合いになっているケースが多い。)

また、異性愛者による性的少数者への意識的・無意識的な圧力からも、ジェンダー論を語る上で目を逸らしてはいけない。

今でこそ、LGBTQやXジェンダーなどの生き方が異性愛者から「発見」されたが、彼らは現代に突如として現れたのではないということを多くの異性愛者は理解する必要があると私は思う。

例を挙げると、質疑応答の時間に「今ではLGBTの存在が認められつつあるが(後略)」という発言があり、パネリストから問題視された。
何故、問題視されたか、あなたにわかるだろうか。

LGBTが今も差別されているから?
もちろん、それもあるだろう。しかし、本質ではない。

問題視されたのは「認める」という認識だ。

誰が誰を「認める」のか。
この文脈では、異性愛者が性的少数者を「認める」という意味だろう。何故なら、文脈上、認められる対象者が性的少数者だからだ。

しかし、性的指向や性自認は、そもそも「認められる」必要があるのだろうか? 誰に? どうやって?

この文脈には、異性愛者による性的少数者への支配的意識がある。そこが問題視されたのだ。

私は、恥ずかしながら、真の問題点は解説されるまでわからなかった。
私以外にも、解説なしには気づけなかった人もいると思う。もちろん、この質問者にも意図的な悪意はなかったはずだ。

それほどまで、性的少数者を「発見」し、「認める」ことは、性的多数派(異性愛者)の文化にとっての「自然」で「普通」なことだったのだ。そして、その支配者的な「普通」が、様々な生きづらさを生んでいる。

ここまで読んでくれた方は、いかにジェンダー問題が根深いのか、その一端にお気づきになったのではないだろうか。

「私はジェンダー問題に理解・関心がある」と信じている異性愛の人ほど、自分が支配者的思考をしていないか、気を引き締めたほうがいい。それが、私の最大の気づきだ。

その意味では、多数派と少数派が対等に理解し合うことは、少なくとも現時点では難しいと言えるだろう。
だが、パネリストからも指摘があったことだが、「いかに分かり合えないかを理解する」必要が、つまり、自分の理解に限界があることを私たちは自覚する必要がある。
それが、現時点でジェンダー問題を語る上での、多数派にとっても少数派にとっても大前提となるだろう。

(これもパネリストから指摘があったことだが、)自分の力を過信せず、引き下がるべきところは「わからない」と引き下がる力も必要だ。
そして、自分が知っている社会的なカテゴリーから外れた人(「ジェンダーレス男子」としてりゅうちぇる氏の名前が挙がった)と出会った時に、しっかりと「この人はどういう人なんだ!?」と「撹乱」されるべきだとも指摘があった。
この場合の「撹乱」とは、出会いがしらに頭ごなしに否定・拒否しないで、自分の既存の価値観を揺らがせながら、じっくりとその意味を考えるということだと私は理解している。

もう一つ、私は自分の傲慢さを恥じなければならない。

10年近く前、私は福祉系の学部の教養でジェンダー論を学んでいる。
今回のトークイベントに参加した動機は、学問は生き物なので、過去の栄光にしがみつくのではなく新しいことを吸収することが大事だと思ったからだ。

会場には、10年前の講義では聞かなかった新しい概念が次々と話題に出た。クィアがその代表例だ。私はそれらを、ジェンダー問題の多様化とボーダレス化だとイベント中にぼんやりと思っていた。
だが、その「多様化」は、多数派による「少数派を認める」ことによって社会問題化してきたことのはずである。つまり、10年前、あの講義を受けていた人の中にも今日の「問題」を抱えていた人がいるはずなのである。
つまり、私は本質を何もわからないまま、わかった気になっていたのだ。

そろそろまとめに入ろう。

ジェンダーの問題は誰の問題なのだろう。
それは、もちろん、性的少数者の問題であり、女性の問題であり、男性の問題であり、なによりも社会構造の問題である。

こう書くと、どこか遠いことのように感じられるかもしれないが、社会というのは個人の集まりなので、社会の問題はあなた個人の問題でもある。
そもそも、あなたがいずれかの性自認をお持ちの限り、あなたもジェンダー問題の当事者であると言えるのだ。

ただ、ジェンダー問題の当事者であることと、ジェンダー問題でそのジェンダーの立場を代表して意見が言えることとは全くの別物である。
例えば、男性という性自認ひとつとっても、独身・既婚の男性、父親である男性・子どものいない男性、異性愛・同性愛・両性愛の男性、トランスジェンダーの男性など、多様な立場の男性がいる。
女性がこれらの立場を正確に代弁できるわけではないし、同じ男性でも生まれながらの男性がトランスジェンダーの男性の意見を代弁できるかというと、難しいだろう。たとえ、代弁できたとしても、トランスジェンダー側からは違和感が残る場合が多いだろう。私も、「女性」を「代表」して意見が言えるかと問われれば躊躇する。
あくまで、そのジェンダーの中の一個人であることを常に自覚して語るべきだろう。

拙い長文を長々と読んでくださったあなたに感謝する。
本当は、トークイベントでそれなりの時間をかけて議論された性暴力の話も入れたかったのだが、それは別の記事に譲ることにする。

厳しいご意見や、私も誤解していたというご感想などは、この記事でのコメントでもTwitterでも歓迎である。(Twitterアカウントは、noteのプロフィールからご確認いただきたい)

私の気づきがあなたの問題意識の始まりになってくれたら、私にとってこれ以上の喜びはない。

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