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夜のはじまり

 夕暮れが長い季節。ラベンダーのグラデーション。柔らかで爽やかな空気。5月のこの時間はすごく好きな時間だ。

 去年よりは規制が緩くなったとはいえ、まだまだ夜遊びするのは憚られる。(とはいえ、遊ぶことはなかったのだが。難しくなるとしたくなるのが、人間のさが。)

 さやかは、仕事終わりにひっつめ髪を解く。

 出社してる時でも在宅の時でも。

 そして、きれいに髪を梳く。

 さやかの髪は彼女のお気に入りのパーツだ。柔らかく艶やかな髪は、優しく梳けば、さらさらと肩にかかる。

 どこに行くわけでもないけれど、オンとオフの切り替えの甘いスイッチ。

 地味で冴えないというのは、さやかにとってのコスプレ。お遊びに近い。

 仮面はいくら持っててもいい。自分が仮面だとわかっているのなら。

 さやかはそう思っていた。

 「本当の自分」なんて実はないんじゃない?剥いていったら、最後は無かもね。

  鏡の中で微笑む彼女。それはそれでいい。そこに虚しさなんて感じなくていい。

 この流行病は、考え方をずいぶん変えざるを得なかった。

 さやかは、頑張ることと意味を探すことをやめた。

 大きな力は、人間ごときの思惑なんて関係ない。小さなコミュニティの掟は、その小さな世界の秩序を保つためだけに存在する

 ただそれだけ。

 だから、同調圧力に適応しすぎなくてもいいのだ。

 そう思うようになって、さやかはのびやかになった。

 鏡にうつる自分の唇を撫でる。ひんやりと硬い鏡の感触。

 他人が見える私は、鏡の私。本当の私ではない。

 さやかの笑みが大きくなる。

 それは寂しいことかもしれないが、それを知れば苦しくはない。

 今までの価値観が崩されていく世界。

 そこに踏みとどまるには?

 さやかは自問自答する。

 答えは、まだでない。

 けれど、一つの真実。

 「私は私。」

 さやかはつぶやく。
 
 そして、バスルームを出た。

 

 

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