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“大空へ命をかけて“〜北海道初の男性飛行家~高橋信夫

プロローグ

『ひこうき雲』
ユーミンが荒井由実時代に作った名曲の1つ。
アニメ『風立ちぬ』の主題歌としても使用され、海外でも人気がある。
その歌詞に”空に憧れて、空をかけてゆく・・・”という印象的なフレーズがあります。

いまから100年と少し前の大正時代、その言葉通りに”空に挑み、自由に空をかけ巡った男女が北海道の端っこで偶然にも現れます。

彼らは、北海道出身者では、初めての飛行家(飛行機操縦士/パイロット)となるのです。
一人は、高橋信夫(枝幸町出身)、もう一人は米山イヨ(稚内市出身)。

高橋信夫(1893~1923)

先日、自身のSNS(Facebook)で二人のプロフィールについて簡単に発信しました。
そのあと、彼らについて少し詳しく調べてみると二人がドラマティックな飛行家人生を送ったことを知ることになります。

私も社会人となった間もない頃、大阪伊丹空港で働き、飛行機に関わっていました。

彼らのように操縦する能力は全く持ち合わせていなかったが、空への憧れ、飛行機に乗って日本や世界を巡ってみたいという気持ちは、負けていなかったと思います。

今回は、同郷の高橋信夫(1893~1923)の飛行家人生を紹介します。

初の北海道出身飛行家

北海道出身者で最初の飛行家(飛行機操縦士)となる高橋信夫は、1893年(明治26年)8月2日、父・萬吾、母・カネの四男一女の三男として北海道古宇郡神恵内村大字神恵内63番地(現・北海道古宇郡神恵内村)に生まれます。

1907年(明治40年)1月、13歳のとき、北海道枝幸郡枝幸村乙忠部(おっちゅうべ)(現・枝幸町)に転籍しています。

後に高橋信夫の師である白戸栄之助が千葉寺に建立した碑文には、「北海道枝幸に生ル・・・」と刻まれており、また、「枝幸町史」にも枝幸町出身という記述があります。

さらに1921年(大正10年)に発行された”航空免状(ライセンス)”の本籍欄には、枝幸村と書かれています。

高橋信夫の出生地は神恵内村で、本籍は枝幸としていたのか?
そうであれば枝幸は彼の第二の故郷といえます。

しかし、今回は『枝幸村出身の高橋信夫』として紹介します。

れい明期の航空業界

1910年(明治43年)12月14日、日野熊蔵陸軍歩兵大尉が、東京・代々木練兵場(現・代々木公園)で2メートルの高さで100メートルの距離を飛び、日本で最初の動力飛行に成功しますが、すぐに着陸したという理由で正式な飛行とは認められませんでした。

5日後の12月19日、日野・徳川好敏両大尉が、そろって飛んだ日をもって【日本人初飛行の日】とされています。
ライト兄弟が世界初の有人動力飛行に成功した1903年12月17日より7年後のことです。

現在、代々木公園南口近くには、初飛行を記念し『日本航空発始之地記念碑』が建っています。
翌1911年(明治44年)5月5日、奈良式2号機により奈良原三次が所沢陸軍飛行場で4メートルの高さで60メートルの距離を飛びます。
これが国産民間機の初飛行となったのです。

のちに高橋信夫の飛行機操縦の師となる白戸栄之助は、1913年(大正2年)10月、北海道に渡り、奈良原式4号「鳳(おおとり)号」で巡業飛行を行います。
当時、枝幸村に住んでいた高橋信夫が札幌まで「鳳号」の飛行を見に来たとは考えにくいと思いますが、もし見たとしたら、10月27日に旭川町(現・旭川市)で開催された飛行会の可能性が高いでしよう。
しかし、彼が実際、旭川に来て、飛行会を見た記録は残っていません。

この時、高橋信夫は、20歳です。この大空に憧れていた若者は、この実際の飛行あるいはニュースを、どのように受けとめていたのでしようか。

彼は、この3年半後には枝幸村をあとにして、千葉県の白戸飛行練習場に第二期生として入所しています。

このことからも、彼にとって大きな衝撃だったことは、間違いないと言えます。

郷土訪問飛行

1919年(大正8年)、高橋信夫は、白戸式16型ノーム50馬力『薫号』に搭乗し北海道への『郷土訪問飛行』を行います。
同時に師である白戸栄之助がサポーターとして同乗していました。

飛行中の白戸式16型ノーム50馬力「薫号」/写真出典:黎明期のイカロス群像

#札幌

郷土訪問飛行の最初は、札幌。
6月1日、札幌村北20条西5丁目付近の「京都合資会社」所有地において行われています。
当日、7メートルの北風が吹いていました。

『薫号』は、風に向かって大学(北大)通りを停車場(現・JR札幌駅)まで引き返し、しだいに、高度を下げ、観衆の頭上数十メートルの低空飛行をおこない、エンジンを吹かして再度、北に向かって上昇し、南に回り込んで着陸します。7分間の飛行でした。

2回目は、高度1200メートルを維持。北海タイムス社(現・北海道新聞社)上空で旋回し、挨拶ビラをまきます。

                 『京都合資会社』所有地
1887年(明治20年)現在の札幌市北15条以北に30万坪(約100ヘクタール)の平田農場が
誕生する。平田農場は、もともと、札幌農学校(現・北海道大学)の農校園であった。
1892年(明治25年)平田多七が北海道庁より貸し付けを受ける。
その位置は、北15条以北、現在の西1丁目より西は北海道大学に接し、北は北24条から北26条に
あった創成小学校の学園地に、それぞれ接していた。
その後、大正時代となり「京都合資会社」に譲渡されたという記録がある。
当時の農場には、2カ所の牧場があったとされているので、この場所で飛行機の離着陸が行われた
可能性が高い。
当時、1910年代には、月寒練兵場や北20条西5丁目付近の「京都合資会社」の敷地(所有地)でも
飛行大会が開催されていた。

#岩内町

つづいて6月15日、岩内町で郷土訪問飛行が行われています。
高橋信夫の祖父・常四郎(元・会津藩士)は、明治期、岩内私学校(後の岩内古宇同修学舎)の校主であり、岩内の教育行政に大きな偉業を残しています。また、父・萬吾も神恵内方面で漁師の親方(網元)でした。

このような縁もあり有志の要請により訪問飛行が行われます。
現在の第一中学校と高台小学校(1977年/昭和52年閉校)にわたる旧校庭に約2万人の観衆が集まったと伝わっています。

岩内町で飛び立つ直前の白戸式16型「薫号」/写真出典:岩内町郷土館HP

「薫号」は、わずか40~50メートルの地上滑走で離陸。
東南方向に上昇し老古美(現・共和町)の上空600~700メートルまでいって、左旋回をして帰着します。
エンジン故障で5分間の短い飛行でしたが熱狂的な拍手とバンザイが続いたといいます。

前岩内町長の娘・梅澤ヤエ子から花束を受け取る高橋信夫(右端)/写真出典:岩内町郷土館HP

2度目の飛行も5分間でしたが3度目は、遠く前田・幌似(現・共和町)の上空からリヤムナイ(梨野舞納/元・共和町)より岩内駅の上空を通り、波止場通りの上空で挨拶ビラをまきました。

雷電山(標高1211メートル/岩内町と蘭越町にまたがる山)、七の沢あたりから帰路につき、1200メートル上空から着陸態勢に入り、約11分間の飛行を終えています。

#枝幸村 (現・枝幸町)

7月5日、いよいよ、出身地である北海道枝幸村(現・枝幸町)ウエンナイにある畑地で飛行を行います。
「枝幸町史」(1971年/昭和46年発行)によると『飛行機を見ることは当時としては珍しいことだったが、その上、飛行士は、郷土出身、村民一同は感激の涙で拍手。賞賛の声を惜しまなかった」と記載されています。
高橋信夫は、この時、26歳。

#稚内町(現・稚内市)

枝幸村を郷土訪問飛行したとき、稚内町(現 稚内市)は、高橋信夫に稚内での飛行を要請します。
当時、市内にあった「岩谷牧場」(現・稚内市栄町)から飛び立って、稚内上空を初飛行しました。これが稚内の空を初めて飛んだ飛行機となります。

飛行機を見た人が、ほとんどいなかったので稚内町で大変な評判となり、学校では、児童を引率して見学に出かけ、町の人々は、弁当持参で押しかけ、岩谷牧場は、時ならぬ見物人で黒山の人だかりとなったそうです。

#樺太 (現・ロシア・サハリン州)

枝幸村、稚内町のあと、当時、日本領であった樺太に渡り、7月25日大泊(現・コルサコフ市)の競馬場(大泊の東側、大泊川川岸)で飛行を行います。
定刻6時には、1万人の観衆が集まり、2回の飛行を行っています。

現地の『樺太日日新聞』は、当日の様子を次のように伝えています。
「6時40分離陸。500メートルで飛行すること9分。順次下降し、高橋氏は低空飛行を最も得意にして観衆の頭上を低空で飛行し、6時50分着陸」

8月2日は、豊原(現・ユジノサハリンスク市)の競馬場(東側にあった樺太神社の隣接地)で2回の飛行を実施します。

北海道から樺太への飛行機の移動は、恐らく、解体して船で運搬されたと考えられます。

郷土訪問飛行の翌年、1920年(大正9年)9月、秋田県能代市にあった能代飛行場(東雲飛行場)で入場料20銭を徴収して離着陸を観衆に見せています。

飛行大会

#第2回懸賞郵便飛行

1920年(大正9年)11月21日~23日、帝国飛行協会の主催。
大阪~久留米間で実施されました。高橋信夫は、第2位となりますが途中、標識不通過とされ、第3位(等外)でした。
高橋は、この時の気持ちを雑誌で「初めての遠距離飛行に、とにかく成功することができたのは実に嬉しい」と述べています。

第2回懸賞郵便飛行に参加したヒコーキ野郎たち。左から水田嘉藤太、嶋田武男、石橋勝浪、後藤勇吉、高橋信夫/写真出典:黎明期のイカロス群像

#第2回懸賞飛行競技大会

1921年(大正10年)5月21日~25日、帝国飛行協会の主催。
競技種目は、速度、距離、曲芸の三種。高橋信夫は、9名中3位となっています。彼は、速度と曲芸では1位となっており、特に速度では1時間160マイル(時速約258キロ)のスピードで国内航空機の速度記録を達成しました。

第2回懸賞飛行競技大会に参加したヒコーキ野郎たち。左から玉井照高、藤田英一、小栗常太郎、高橋信夫、安岡駒好、嶋田武男/写真出典:黎明期のイカロス群像

#第3回懸賞郵便飛行

1921年(大正10年)8月21日、東京~盛岡間で実施。帝国飛行協会の主催。
高橋信夫の搭乗機は盛岡を離陸後、強い横風にあおられ練兵場にある記念碑に右主翼をひっかけ転覆。機体は大破し、彼は手と顔に怪我をします。

彼は手記の中で「~要するに私の不注意。技量の拙劣に起因することで誠にお恥ずかしくあり、また、誠に申し訳ない次第で衷心よりお詫び申し上げます」と述べている。結局、彼は等外扱いとなってしまいます。

第3回懸賞郵便飛行に参加したヒコーキ野郎たち。左より高橋信夫、嶋田武男、福長四郎、後藤勇吉、水田嘉藤太/写真出典:黎明期のイカロス群像

#第4回懸賞郵便飛行

1921年(大正10年)11月3日、帝国飛行協会の主催で金沢~広島間で実施された。
参加者は6名。高橋信夫は、広島上空で暴風雨に見舞われたが無事に広島の東練兵場に着陸。彼は、大先輩である、石橋勝浪、後藤勇吉、永田嘉藤太を抜いて、みごと第1位となり優勝します。

第4回懸賞郵便飛行で高橋信夫が搭乗した白戸式改造37型インスパノ・スイザ220馬力練習機/写真出典:黎明期のイカロス群像

一等飛行機操縦士

1921年(大正10年)6月28日、高橋信夫は、全国で3番目(日本人としては、後藤勇吉に次ぐ2番目)の一等飛行機操縦士(免許番号第9号)となります。

高橋信夫の航空免状第9号/写真出典:黎明期のイカロス群像

言うなれば、それまで”野放し状態”だった民間航空が政府の規制を受けるようになり、操縦者は、「操縦免状」を、飛行機自体は、「堪航証明書」を取得しないと航空の用を供してはならない、要するにライセンス(操縦免状)のない操縦士は飛行機を操縦できないし、飛行機も証明書がなければ空を飛べないということになったのです。

操縦士は、1,2,3等飛行機操縦士に等級を分けながら、免状発行順に番号を付けられました。

高橋信夫の航空免状第9号。本籍地は北海道枝幸村と記載されている/写真出典:黎明期のイカロス群像

ふたたび北海道の空へ

高橋信夫は、1919年(大正8年)6月に行った郷土訪問飛行以来、折に触れて、もう一度、郷土・北海道の空を飛んでみたいと師である白戸栄之助に話をしていました。その願いが、かなうことになります。

1922年(大正11年)6月9日、函館の柏野練兵場で曲芸飛行を行います。

函館での飛行を伝える北海タイムス記事(現・北海道新聞)/写真出典:黎明期のイカロス群像

函館の次は、機体を解体梱包し札幌へ移動。6月15日、札幌北20条の京都合資会社の広場を会場に強風の中、曲芸飛行を行っています。

6月16日は、札幌から小樽への訪問飛行。
小樽上空で曲芸飛行を披露しています。札幌への帰路は、向かい風でしたがが高度を高くとり、札幌上空でも宙返り、つばめ返し、木の葉落としなどの曲芸を観衆に見せています。

札幌、小樽の宣伝飛行に使用した白戸式32型ル・ローン120馬力曲芸機/写真出典:黎明期のイカロス群像

6月22日には、北海道北部の名寄で飛行を行います。
大勢の観衆の中には、名寄中学校や小学校の生徒が多くいたので、彼は生徒たちに、丁寧に飛行機の説明を行っています。

会場は、競馬場で飛行機の離着陸に適しているとは言い難く(縦200メートル/横100メートル)、のちに彼は、「こんな狭い場所での離着陸は初めてなので、いい勉強になった」と述べました。

白戸飛行練習所と指導者

高橋信夫の活躍により、一躍、白戸飛行練習所の名声は高まることになるのです。
嶋田武男と並んで白戸栄之助門下の双璧と言われました。

そんな中、嶋田武夫一等操縦士が、1923年(大正12年)2月22日東京~大阪間の幹線定期航空に派遣されていましたが、箱根上空の猛吹雪で箱根山中の明神ヵ岳(標高1169メートル)に激突し殉職します。24歳8か月でした。

同じく小出菊政二等操縦士も殉職したため、高橋信夫は練習生の指導をすることになるのです。

千葉・寒川海岸

1923年(大正12年)4月28日、高橋信夫は、芹沢忠治練習生に操縦させ同乗します。

千葉市の上空で土地の警察消防衛生展の宣伝ビラをまき、着陸しようと旋回中、低空で角度が急で(深過ぎ)あったため、失速状態となり、彼の懸命な補助操作もおよばず、横滑りのまま、寒川海岸に激突。死亡してしまいます。29歳8か月でした。
同乗の芹沢練習生は、重傷を負いましたが、一命を取りとめています。

千葉寺と岩内町郷土館

白戸飛行練習所の白戸栄之助は、嶋田、高橋の相次いだ二人の殉職をうけ1924年(大正13年)10月、白戸飛行訓練所を閉鎖、航空界を引退します。そして木工業に転職してしまうのです。

白戸の心の痛手は、計り知れないほど深刻だったのでしょう。

高橋信夫の没後の5月4日、千葉市広徳寺で盛大な葬儀が営まれます。
若い操縦士たちが飛行機数機に分乗して飛来し、空から参列したといわれています。

高橋信夫と嶋田武男及び戒名

白戸は、二人の死を悼み、千葉県千葉市の千葉寺(せんようじ)に胸像を建てます。しかし、太平洋戦争の金属供出で胸像は失われてしまいます。
現在は、碑銘と碑文を刻んだ台座が残っているだけです。

千葉寺境内の高橋信夫と嶋田武男の記念碑

また、北海道岩内町郷土館には、高橋信夫の胸像の石こう型が展示されています。作者は、彫刻家の田島亀彦で1924年(大正14年)の製作。

高橋信夫の胸像(せっこう型)北海道岩内町岩内町郷土館所蔵

2023年(令和5年)は、高橋信夫の没後100年にあたります。

この機会に千葉寺にある”胸像復活”が行われることを願うばかりです。

エピローグ

今回、高橋信夫が活躍した航空業界のれい明期の資料を読んでいると"事故””墜落””不時着””激突””エンジン故障””墜落死”などという言葉が数多く確認できます。

当時、大空を飛ぶということは、まさに「命をかける」ことだったと思い知らされます。
それでも夢と現実のはざまで生き抜いた”ヒコーキ野郎・高橋信夫''、郷土の英雄に敬意を表さずにはいられません。

付記:高橋信夫と一緒に駆け抜けたヒコーキ野郎

白戸栄之助(1885~1936)

白戸栄之助(1885~1936)

青森県北津軽郡金木町出身の日本の空のパイオニアの一人。
陸軍気球隊を退職後、奈良原三次に師事。1912年(明治45年)初の公開飛行を行い『民間操縦士1号』となる。1916年(大正5年)千葉県千葉町(現・千葉市中央区)に白戸飛行練習所を開設。民間飛行士(高橋信夫、嶋田武男など)を養成した。
1923年(大正12年)に朝日新聞が設立した「東西定期航空会」(東京~大阪間で郵便輸送や旅客輸送を行った航空会社)に協力し、高橋、嶋田など門下生を操縦士として派遣したが、彼らが相次いで殉職したこともあり1924年(大正13年)10月、航空業界を引退し木工業に転職する。

嶋田武男(夫)

熊本県出身の一等飛行機操縦士。
白戸飛行練習所で白戸栄之助に師事。1920年(大正9年)に行われた第1回飛行大会に出場。その後、東西定期航空会の操縦士となり、1922年(大正11年)秋の東京~大阪間郵便飛行では、往復7時間46分で1等賞と帝国飛行協会の有功賞を受けている。
1923年(大正12年)大阪から東京へ飛び立った後、三島を通過してから消息を断つ。捜索の結果、箱根山明神ヵ岳のガキ沢の大岩石に機体を衝突させているのが発見された。享年26歳。
千葉県千葉寺に戦前に建立された胸像の台座が残っている。

小出菊政

愛知県出身の二等操縦士。高橋信夫と一緒の白戸飛行練習所で白戸栄之助の門下生の一人。高橋信夫や嶋田武男らの指導を受けた。
1923年(大正12年)1月9日、静岡県三島練兵場から東京へ出発。
離陸直後発動機の出力が不足して20メートルの上空より墜落、重傷を負いこれが原因で精神的に異常をきたし、半年後の8月24日に死亡した。享年20歳。

石橋勝浪

千葉県出身の万国飛行免状取得者。フランスのファルマン飛行学校を卒業している。のちにフランス陸軍の飛行免状を有し、第一次世界大戦にフランス陸軍飛行中尉として参戦した。

後藤勇吉

宮崎県延岡市出身の一等飛行機操縦士。日本人として最初の一等飛行機操縦士である。
1924年(大正13年)7月23日~31日、大阪毎日新聞「春風号」で日本最初の日本一周飛行(4395キロメートル・33時間52分)を成功させ、1927年(昭和2年)夏には飛行艇で上海飛行を行うなど日本民間航空のレジェンド的存在。
1928年(昭和3年)佐賀県藤津郡七浦村音成(現・鹿島市大字七浦竹ノ木庭)の上空に達したとき濃霧のため前方が見えなくなり、400メートルまで降下、引き返そうと旋回中に柿の木に触れて墜落して死亡。享年33歳。

後藤勇吉/写真出典:日本民間航空通史

水田嘉藤太

岡山県出身の一等飛行機操縦士。日本初の宙返りを行う。のちに水田飛行学校を開校して校長となる。
1924年(大正13年)3月29日、練習生と飛行練習中、発動機に故障を生じ、引き返そうと急旋回したため失速状態となって墜落。練習生は死亡するが、水田氏は、一命をとりとめたが頭部を強打したのが原因で二度と操縦桿を握ることができなかった。

藤縄英一

新潟県出身の三等飛行機操縦士。
1921年(大正10年)5月27日、航空局が国家試験を新設した最初(第1号)の飛行免状取得者。
同年12月15日、千葉県津田沼海岸で濃霧中に低空旋回をして海面に激突。同氏は、飛行機から逃れ、泳いでいたが寒さのため溺死。享年30歳。

藤縄英一/写真出典:日本民間航空通史

福長四郎

静岡県出身の二等飛行機操縦士。
帝国飛行協会主催の第三回懸賞郵便飛行競技(東京~盛岡間)や第四回郵便飛行(金沢~広島)では、操縦の非凡さを激賞されている。
1926年(大正15年)8月6日、朝鮮半島へ宣伝飛行に出かけ、現地で50メートルの上空で急旋回を行った際に脚気衝心(心不全)を起こしてキリモミ状態で墜落し死亡した。享年31歳。

山縣豊太郎

広島県出身。伊藤飛行機研究所の教官として多数の練習生を育てる。
19歳から岩手県を振り出しに、北海道、中国、朝鮮などで飛行大会を開き民間飛行界に名をはせる。
1919年(大正8年)5月5日、強風の中、民間航空初の連続二回宙返りを公開して天才飛行家といわれた。
1920年(大正9年)8月29日、愛機「恵美号」を操縦して千葉県習志野の鷺沼海岸を離陸、800メートルの上空で見事な宙返りを3回連続して行い、さらい1000メートルまで上昇して4回目の宙返りに移ろうとした時、飛行機の左翼が突如、折れてしまい、そのまま、キリモミ状態となり畑へ墜落して死亡した。享年23歳。

参考文献

  • 佐藤一一『日本民間航空通史』国書刊行会、2003年

  • 平木國夫『黎明期のイカロス群像』㈱グリーンアロー出版社、1996年

  • 平木國夫『イカロスたちの夜明け』㈱グリーンアロー出版社、1996年

  • 平木國夫『日本ヒコーキ物語』㈱冬樹社、1980年

  • 野中長平『風土記 稚内百年史』1977年

  • 北海道枝幸町『枝幸町史 下巻』1971年




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