鳥取県からの北海道移住 #2~明治・大正時代の北海道移住①
鳥取県の北海道移住の特色は、鳥取県東部地域からの移住者が多いという地域性がみられること。
●最初の屯田兵と北海道
1869年(明治2)年8月、蝦夷地は、北海道に北蝦夷地は樺太(現 ロシア連邦サハリン州)と改称された。
最初の屯田兵が琴似(現 札幌市西区琴似)に入植した1875年(明治8)の北海道の人口は、約18万人を数えた。その50年後には、約250万人に急増している。
これは、明治政府の近代化政策のひとつとして北海道開拓の必要性から実施された移住が要因とされる。
この時期、鳥取県からも約25000人が移住。
●西郷隆盛と屯田兵
屯田兵生みの親は、当時、開拓使次官だった黒田清隆とされているが、維新の立役者で、のちに西南戦争を起こした西郷隆盛が重要な役割を果たしている。
1869年(明治2)5月25日、箱館戦争の時、五稜郭に立てこもる榎本武揚を討つため、箱館湾まで進行したきた隆盛は、北の大地を目のあたりにしてフロンティア・スピリットをかきたてられ、廃藩置県で失業した士族の救済と北からの脅威(ロシア)に対する、あまり金のかからない戦力の確保を提言する。
隆盛は腹心の桐野利秋少将を北海道に派遣し兵力を調べさせ、開拓使官吏で同じ薩摩出身の永山武四郎に屯田兵の創設を持ちかけた。
のちに屯田兵本部長、北海道庁長官になもなった武四郎はこれに共鳴し1873年(明治6)10月に黒田に建議する。1874年(明治7)10月「屯田兵例則」が設けられ、北海道琴似の原野に屯田兵村が建設された。
●最初の北海道移住
鳥取と北海道の関係は、1869年(明治2)の分領支配に始まる。
分領支配とは、開拓使が管轄する蝦夷地(北海道)を諸藩、士族、庶民の志願者に分割して支配させた体制のことである。
当時の脆弱な明治政府の財政では、北海道開拓を強力に推し進めることは望めなかった。しかし、北海道開拓の大きな目的は何よりもまずロシアに対する領土の保全だった。したがって、明治新政府の軍事体制がまだ確立されていなかった当時としては、諸藩の持つ武力に期待するしかなかった。
一方、版籍奉還で領土権を失いながら、尚、知藩事として藩政に当たらなければならなかった諸藩主にとって、北海道の開拓地経営は、解体された武士団(士族)の処遇を解決する意味においても魅力的だったといえる。また、政府側にとっても、封建制度(武士の世)を一挙に打破することによって武士団(士族)の抵抗を緩和させることができると考えた。
この時、鳥取藩は、後志国島牧郡(現 後志管内島牧郡)とその付近から南方の「シツキ」境までを割り当てられている。シツキとは、現在の須築(現 せたな町)を指すと思われる。しかし、鳥取藩は実際の支配は行っていない。
鳥取県からの最初の移住は、1879年(明治12)の士族5人の渡島国亀田郡(現 函館市)への移住である。
●三県時代と『北海道移住士族取扱規則』
1882年(明治15)、北海道開拓使は廃止され、北海道は、札幌、函館根室の三県に分割された。いわゆる三県時代の始まりである。
1883年(明治16)、農務省の指導のもとに、三県は
北海道移住士族取扱規則(全6条45項)を告示し、札幌県は岩見沢函館県は木古内、根室県は釧路を受け入れ先とした。
鳥取県から北海道への本格的な移住が開始されるのは、三県時代の1884~1885年(明治17~18)の釧路、岩見沢への移住から
である。
●島根県への併合
この頃、1876年(明治9)、鳥取県は島根県に合併される。
戊辰戦争(1868~1869)で政府軍として功績をあげた因州藩(鳥取県)にとって島根県への併合は幕府側だった旧松江藩への従属のようでもあり、屈辱的だったともいう。県庁も松江に置かれた。
今回、一時的にも鳥取県が地図上から消えた事は、個人的に初めて知る歴史的事実であり、驚きでもある。
その後、士族たちによって鳥取県再置運動が展開され、参議 山縣有朋(1838~1922)が実情視察のため鳥取県と島根県を巡視した。
山縣の視察から2カ月後の1881年(明治14)9月に鳥取県は再置されることになる。
●県令 山田信道
鳥取県再置後、初の県令(現在の知事にあたる)である、山田信道は困窮化・暴力化する士族への対策として、北海道移住政策を打ち出した。
1882年(明治15)6月、鳥取県の士族の3分の1にあたる2000戸の移住を政府に願い出た。その内、1000戸が認められる。
●士族の本格的移住
1884~1885年(明治17~18)に100戸の士族と5戸の師範農家(士族に農業指導する農家)が根室県釧路郡へ移住し鳥取村をつくる。
一方、1885年(明治18)にも札幌県空知郡岩見沢村へ100戸の士族と5戸の師範農家が移住している。
『移住士族取扱規則』では、1882年(明治15)年度以降毎年150戸を8年間にわたり移住させる計画だったが、1885年(明治18)の移住を最後に中途で打ち切り、1000戸の残り790戸は、屯田兵として移住することになり、その募集を再開する。
移住士族取扱規則の廃止に伴い、復活した屯田兵制度では、西日本の士族をも対象とするようになり江別(現 江別市)、野幌(現 江別市野幌)和田(現 根室市)、太田(現 厚岸町)、輪西(現 室蘭市)兵村などは札幌近郊及び北海道の太平洋沿岸部の主要な港付近に置かれた。
このうち、鳥取県からは、江別、野幌、和田、輪西兵村に232戸が移住している。
●「失敗屯田」と士族移住の挫折
しかし、太平洋側の和田、輪西などの兵村は農業に適さない立地条件であったため、「失敗屯田」と言われ多くの移住者が離散せざるを得なかったのは、屯田兵には年齢制限に加え、戸主という条件があるため、条件を満たすために無理な養子縁組が行われた。
屯田兵応募の条件を満たすためだけに作られた希薄な家族関係は移住後に破綻し、失踪、逃亡、離縁を多く引き起こした。
現在、移住地に屯田兵移住者の子孫が極端に少ないのも、自然の厳しさや農耕不適地であったことに加え、間に合わせ的な「屯田養子」縁組みも一因だったと言われる。
私の周辺においても、「私の先祖は、屯田兵として北海道に移住してきた」という方には、いまだ、お会いしたことがない。
山田信道の鳥取士族1000戸を北海道に移住させる計画は、合計432戸を移住させたことで終了することになった。
参考・引用文献
■小山富見男・岡村義彦『鳥取市史研究 第19号~明治・大正期の鳥取県人の北海道移住』鳥取市 鳥取市史編さん委員会、平成10年
■錦織勤・池内敏『街道の日本史37 鳥取・米子と隠岐 但馬・因幡・伯耆』吉川弘文館、平成17年
■伊藤康『鳥取県立公文書館 研究紀要 第4号 県人の北海道移住~分領支配・「規則」・農場』平成20年
■関秀志・桑原真人『北の生活文庫 第1巻 北海道民のなりたち』北海道新聞社、平成9年
■松田延夫『現代に残る 北海道の百年』読売新聞北海道支社、昭和50年
■榎本守恵『北海道の歴史』北海道新聞、昭和56年
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