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反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #4

05.開拓使麦酒醸造所

開業

1876年(明治9)9月23日、開拓使は、総工費8348余円、現在の金額で約1億円をかけて『開拓使麦酒醸造所』を開業します。

木造二階建てで、この木造工場は、やがて赤レンガ造りとなり、次々と増築されていくことになります。開業当初の建坪は約260坪でした。

この年は、札幌農学校(現 北海道大学)が開校してクラーク博士が来日した年でもあります。

1876年(明治9)頃の開拓使麦酒醸造所(北側より見た写真)


開業式では、工場の中庭にビール樽を四段に高く積み上げ、樽1個1個に白ペンキで「麦とホップを製すれば、ビイルという酒になる」という標語(キャッチコピー)を掲げ、盛大な祝宴に花を添えました。

場所は、雁来通り(現在のサッポロファクトリーの場所/札幌市中央区北2条東4丁目)で、これがサッポロビールの前身で、日本人の手による国内最初のビール工場となりました。

1876年/明治9年9月23日 「開拓使麦酒醸造所」開業式

開業式には、開拓使の高官をはじめ、工場関係者らがつめかけ、その喜びの声は、1.3キロ離れた開拓使庁舎(現:北海道道庁敷地)にまで聞こえるほどだったといいます。

この後、様々な関連施設がつくられ、ビール輸送のために交通が整備されて、札幌の街は、北の都として活気づいていくことになります。

北の大地で念願のビール造りに着手した中川清兵衛、ここからが麦酒醸造人としての腕の見せどころとなりました。

当時の札幌の町は、ビールの味を左右する豊かな地下水をたたえていました。

醸造所は、豊平川の伏流水を井戸でくみあげて使用していたと思われます。
日本酒の「北の誉」「千歳鶴」も同じ水脈を使っていたようです。

また、氷の心配もありませんでした。原料の大麦もここでは、容易に手に入り、中川は、さっそく”麦仕込み”を開始します。

最初の仕事は、冷たい水を張った大きな桶に大麦をいれ朝夕2回、水を取り替えることでした。

村橋は、その作業を見届けてから、大急ぎで東京に戻りました。

やがて札幌から届くはずのビールの受け入れ体制を整える必要があったからです。
当時は、まだ、北海道では、ビールのマーケット市場が確立されておらず、生産したビールは、全て東京に送る必要があったのです。

庶民は、ビールなど飲んだこともなければ、見たこともありません。
大瓶1本16銭(現在の値段で約6000円)は、新聞の定期購読料と同額だった当時、ビールは、外国人や富裕層の高級嗜好品でした。

そのため、村橋は、東京で消費することを手始めとして、将来的には、海外輸出も視野にいれていました。

東京に戻った村橋は、瓶を製造する技術がないため、外国人が持ち込んだ使用済みの空き瓶や輸入ビールの空き瓶、古樽などを片っ端から買い取り、船で東京から北海道へ運び、再利用にあてることを行っていました。

樽は職人を呼んで、間もなく作られるようになりましたが、瓶は、肥前焼きの瓶を注文して使っていた時期もあるようです。

ようやく、1900年(明治33)直営の瓶工場をもつようになります。
この工場は、道内最大のガラス製造工場でした。

その他に、ビールの輸送手段、ビールを冷蔵する氷の手配など、あらゆる仕事が待っていました。

一方、札幌の中川は、思わぬ試練に見舞われていました。

1876年(明治9)から1877年(明治10)にかけての札幌の冬は、予想以上に暖かく、また、ドイツから取り寄せたビール酵母の品質も悪かったため発酵が思うように進んでいなかったのです。

しかし、中川は、本場ドイツ仕込みの腕前を発揮して問題を解決します。

開業して3ヵ月半後の1877年(明治10)1月9日、東京の開拓使庁は、「充分、醸熟していなくともよいから送れ」という督促状を送っています。

「冷製札幌ビール」完成

様々なアクシデントに見舞われますが、1877年(明治10)5月、日本人の手による「冷製札幌ビール」の商品化に成功します。

ラベルには、開拓使のシンボルである五稜星(北極星)のマークが採用され、その下に「サッポロラガービール」と書かれていました。

これは、現在も受け継がれ「サッポロビール」のトレードマークとなっています。

発売当初の「冷製札幌ビール」のラベル  出典 サッポロビールHP

大量の氷で冷やされた「冷製札幌ビール」が東京に荷揚げされたのは、1887年(明治10)6月。

西南戦争で征討参軍として従軍していた黒田は、その職を辞して、その頃、東京に戻っていました。

黒田は、大金をはたいて作り上げたビールの到着を東京で待ち焦がれていたのです。
しかし、北海道から東京まで物資を運ぶことは、今とは違い、比較にならないくらい困難を伴いました。

東京に到着したビールは、西南戦争のため京都の臨時本営で総指揮をとっていた大久保利通(1830~1878)ら政府首脳に転送されます。

大久保利通  1871年(明治4)明治政府は岩倉遣外使節団を派遣します。大久保も副使として参加。英国を訪問した際、バートン(英国中部)にあるオールソップ社のビール工場を視察、ビール醸造法を具体的に調査し、これからはビール産業が需要だと認識したとされています。

黒田は、開拓使の成果を彼らに披露したかったのです。

首脳たちには、1箱に12本入りのビールが届けられます。
ところが、いちばん肝心の内務卿・大久保利通に送られたビールは、12本とも瓶の中に一滴のビールも残っていませんでした。

黒田は、大恥をかくことになりました。面子まるつぶれです。

その原因は、当時、ビール瓶には、王冠がありませんでした。

買い集めた瓶は、全て不ぞろいで、口径もバラバラでした。そこで、コルクで閉栓したものの、取り付けがしっかりしていない為、長距離輸送の間に内圧によりコルクが抜け、中身が噴き出てしまっていたのです。

これは、王冠が普及するまでは、コルク栓を用いていたための失敗でした。

そのあと、黒田より醸造所へ注意するように村橋へ伝えよと名指しの連絡が入りました。

特に醸造したビールは、”熱処理をしない(殺菌していない)純生ビール”であったので、暑さが原因で酵母などが繁殖して変質する恐れもありました。

そこで、小樽から船積みするまでの間、手宮の岩壁に日差しの入らない洞窟を掘り、貯蔵所として、東京では、”函館氷”を販売していた中川嘉兵衛の氷室の一角を利用するなど創業時のエピソードが伝わっています。

五稜郭伐氷図  函館の五稜郭で切り出された氷は、「函館氷」として販売されていました。製氷技術がない時代、氷はとても貴重で夏場の氷は、金持ちのものとも言われていました。アメリカから採氷機を導入することで氷の値段の低価格化が行われ函館氷が広く出回るようになります。氷はビールを冷やしたり、牛肉や牛乳の腐敗防止や品質保持にな欠かせないものでした。

”清兵衛の味”大絶賛を受ける

その後、細心の注意で届けられたビールが黒田によって振る舞われると政府高官たちからは、驚きと称賛の声が相次ぎました。

開拓使の依頼でホップやビールの成分分析を行っていた札幌農学校教師デビッド・ペンハロー(1854~1910/札幌時計台の塔部の設計者)は、「苦味も良いが何より芳醇な香りが心地よい」と絶賛します。

デビッド・ピアス・ペンハロー  札幌農学校教師。マサチューセッツ州立農科大(クラーク博士が初代学長)卒でクラーク博士の教え子でもある。道内各地で採集した動植物や鉱物の標本を科学的な分類をし解説をつけて演武場内(時計台)に陳列。これが現在の「北海道大学植物園」の基礎となる。クラーク博士帰国後は、三代目の教頭を務めました。現在の札幌時計台の塔部は彼の設計です

ペンハローとベースボール~北海道野球の開拓者
ペンハローは、1876年(明治9)8月(開拓使麦酒醸造所開業1ヵ月前)に開校した「札幌農学校」(現在の北海道大学)へクラーク博士とともに来日。1877年(明治10)彼がバットとボールを作らせたと記録が残っている。農学校の敷地(現 札幌市中央区北1条西2丁目と北2条西2丁目辺り)に旧演武場(時計台)が建てられ、その西側に芝生が広がり、ここで彼は学生たちにベースボールを教えたと考えられる。
その後、ベースボールは、”野球”として北海道に広がっていくことになる。
ペンハローは、”北海道野球の開拓者"の一人といえる。

また、中川が醸造を学んだドイツの醸造学の権威オ・コルセットの評価が開拓使の事業報告書の中に記録として残っています。

「札幌冷製麦酒ハ実二良好二シテ日本二於テ造リタリ麦酒二シテハ一ノ欠点モナク透明二シテ壜底二沈殿物モナク炭酸ヲ含有スルコトモ亦タ充分ナリ」
と評され、上質のビールで、ドイツ産と比べても少しも劣るところはないと本場ドイツから大絶賛を受けたのです。

これにより中川清兵衛の名声は、一気に高まるのです。

1877年(明治10)9月、太鼓判を押された「冷製札幌ビール」は、大々的に売り出され、特に東京では、新聞広告の効果もあって販売店では売り切れが続出し庶民の間でもジワジワと人気が高まりました。

1879年(明治13)には、これまでの2倍の生産能力をもつ醸造所に改築されましたが、それでもまだ製品は不足がちでした。

日本人初の国産ビール製造の技術者として名を挙げた中川清兵衛は、開拓使から高給を支給される札幌の名士の1人となります。

彼は、大きな西洋風の官舎に住み、当時は、珍しい冷蔵庫も備え、毎年春には、札幌の著名人を招いて自宅の庭でビールを振る舞う「園遊会」を開催していました。

中川の苦悩

しかし、その一方で、ビールの保存には、相変わらず手をやいていました。

冬に醸造したビールが花見の頃には、白く濁ったり、ネバネバしたりする状況で、北海道や東北では販売できたものの、東京へは出荷できずにいました。

中川は、「どうして、何度試しても分からない。どういった化学変化によるものか。。。」と頭を抱えていました。

品質変化の要因は、化学ではなく。。。実は、酵母菌の殺菌という生物学的なものでした。

フランス人ルイ・パスツール近代細菌学の祖/1822~1895)によって”熱処理”による殺菌方法(低温殺菌法)が発見され、その技術がドイツのビール製造において確立されるのは、あくまでも中川が帰国した直後のこと。

中川自身、熱処理が殺菌に有効なことは、知っていましたようですがあくまでも自分がドイツで学んだ当時のビール製造に忠実であろうしたようです。

ドイツ仕込み技術者としての誇りが熱処理という方法を受け入れることができなかったのでしょう。

ルイ・パスツール  ビール醸造家がもっとも恐れたビールの酸化をバクテリアや雑菌の働きが原因であるとし、「低温殺菌法」と呼ばれる繁殖防止システムを考案しました。出荷前のビールを60~70度で20~30分間加熱することで、酵母の活動を止め、ビールの品質保持に効果をあげたのです。これにより瓶詰ビールの長期保存が可能となりました。

しかし、1881年(明治14)3月に東京・上野公園で開催された「第2回内国勧業博覧会」で「冷製札幌ビール」がドイツ産と何ら変わらない品質だと折り紙付きの「有功賞」を受賞したことから人気が更に高まっていきます。

錦絵 第二回 内国勧業博覧会之図

この頃には、原料用の麦やホップも全て北海道産でまかなえるようになっていました。

ビール生産は、いよいよ軌道に乗りはじめ、醸造量も飛躍的に増えることになります。
宣伝効果もあり売り切れが続出していきます。

それが正に中川を悩ませることになるのです。

従来の製法では、全てのビールの品質を一定に保つことが不可能となっていたのです。

人生最良の思い出

この1881年(明治14)中川清兵衛にとって一生涯、忘れることができない出来事がおきます。

8月31日、開拓使麦酒醸造所は、明治天皇の行幸をお迎えしました。天皇が醸造所視察のあと、中川が明治天皇にビールを注ぎます。そのジョッキは、中川がドイツから持ち帰った大ジョッキでした。

明治天皇は、もう一杯お代わりを、と言われ再び、2杯目を大ジョッキにビールを注いだのです。
中川清兵衛は、この時のことを死ぬまで人生最良の思い出としていたそうです。

小樽から札幌へ向かったお召列車。牽引したのは、アメリカ製の蒸気機関車「義経号」(現在は鉄道博物館/埼玉県さいたま市で展示)

次回は、二人がビール醸造界より去り、開拓史麦酒醸造所のその後の経営上の変化についてご紹介します。


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