ケープ・ジャスミン 私は幸せです

ケープ・ジャスミン、を観た。大好きな根本宗子さんの1年ぶりの新作。生の舞台。根本さんの舞台を観ると、どれだけ自分が普段色んなことに蓋をして、なるべく考えないように考えないようにしてやり過ごしているかを痛感する。痛くて、苦しくて、まるで自分のことのようで。でもそれを面白く夢中に観れること、少なくとも根本さんの舞台を見ている間は好きなだけ頭を働かせて気持ちを動かしても大丈夫なこと。根本さんの舞台の数時間、体感的にはその一瞬の時間で感じたこと考えたことは、間違いなくそれ以外の時間の私を強く強く支えてくれている。

例えば、大変なことについて。1番大変なこと以外は大変だと言ってはいけない感じが嫌。何気ない会話の中で出てきた言葉だけど、涙が滲んだ。大変なこと、沢山ある。大勢にとって、集団にとっての大変なことにちゃんと向かい合わなければいけないことは分かるし、もちろんちゃんと行動できる。でも、それ以外の個人的な大変なこと、本当はたくさんある。眠ることとか、食べることとか、欲しいもの見つけることとか、朝自分で決めたルールをこなすこととか、連絡しないようにすることとか、ドライヤーちゃんとすることとか、輪ゴム止めることとか、何が嬉しいことなのか間違えないようにすることとか、夜中に本読むのを中断することとか、好きなもの我慢することとか。そういうひとつひとつの大変を、大変じゃないフリすることが、すごく大変。大変なことを大変じゃないと言い聞かせていると、自分の輪郭がどんどんぼやけてきて、その上、大変なことはやっぱり大変で。だから仕事中は楽ちんだ。仕事中って、自分のこと考えなくて良くて、しかもやるべきことは常にちゃんとあって、ある程度人の役にはたつやるべき事だけ考えていればよくて。仕事中って自分がちゃんとできる人間だっていう勘違いをしていられるから、本当に楽ちん。だから、職場にいる間の時間、疲れるんだけど、どこか救われていることってあるって思う。個人的な大変なことと向き合わないで済む時間を作るために仕事しているのかも。

もしくは、自分の思い込みについて。誰かのことを決めつけることはなるべく無いように心がけていても、どうしてもイメージとか、誰々っぽいっていう印象は持ってしまう。つい自分の中でごちゃごちゃ考えて、自分の中で他人のリアクションまで勝手に想像して、そのリアクションに対する印象を自分の感情と結びつけてしまうと、現実の感情と自分の頭の中の感情がだんだん混ざってきてしまう。混ざったことはわかっても、どこがどう混ざっているのかがわからないから、今度は徐々に自分の気持ちとか言葉を外に出すのを躊躇うようになってくる。だって、これまでの色んな経験とか感情を除いて、誰かに自分の言葉を伝えるのってすごく難しい。つい関係ない時の感情や気持ちが混ざった言葉になってしまって、それが実際にあったことならまだしも自分がごちゃごちゃ考えた妄想の中で抱いた感情だったら?外に出られなかった言葉は行き場を失って、結局自分に向けて言うしかなくて。それなら頭の中でひとりでいればいいのにって思うけど。ひとりぼっちの頭の中は考えることすら曖昧で、嫌な静かさに押し潰されそうになって。だから結局、嫌なことがあってもどうしても誰かが必要なんだし、誰かを必要とすることはその人への思い込みを持ってしまうことなんだな、と思う。

他にも本当に色々思って感じて、私の血肉となったものがある。

ごちゃごちゃして、言葉にして外に出そうとするとよくわからないことになる。でも、本当に気持ちと感情と自分の思考の中では、ものすごくクリアになったものがあって。根本宗子さんの舞台を見た後はいつも、これまでの自分の何かが救われて、今の自分はものすごく素敵なものを見た楽しさに夢中で、これからの自分が少し大丈夫な気持ちになるのだ。

だから、胸を張って言える。

ケープ・ジャスミンを大好きな私は、私は幸せです。

ケープ・ジャスミン / 根本宗子 を観て。

そして、作中の音楽全てが本当に素晴らしくて、その音楽で舞うrikoさんの美しさという強さが本当に心の支えになって。素敵な物語と言葉、音楽と踊りをいっぺんに堪能できたケープ・ジャスミンに想いを込めて。

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