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リョウ【chapter48】*


(また始まった…)

心の中で呟くと、タカシは両手で顔を覆い天を仰ぐ。

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残業帰りのソノコが食料品の入った袋を二つさげ「遅くなってごめんね」と、疲れた顔で部屋に入ってきた。

手際よく準備された夕食が三人分、ダイニングテーブルに並ぶ。

「どうしても今日はお肉が食べたかったの」

空腹を刺激する匂いが部屋に広がる。牛肉の焦げ茶色、中心部の赤色、胡椒の黒色、クレソンの緑、ジャガイモの薄黄色、人参のオレンジ、櫛形レモンの黄色。楕円形の大きな大皿の白に照明が当たり、丸くべっこう飴のような光りの玉ができる。トマトの赤、オニオンスープの黄金色、スープの表面に浮かぶクミンの黒に近い茶色、パセリの濃緑色。

エプロンの水色。細い首筋に浮かぶ血管の青、うなじの産毛の茶色、化粧がはげた肌のそばかすの薄茶色、赤色に近い濃いピンク色の唇は、その下に隠されている乳首の色に似ているとタカシは思う。

テーブルに夕食を並べているソノコの腕をそっと掴むと「疲れた?大丈夫?甘えたくなった?お腹すいたわね。リョウくんそろそろ来るわね」と、はげた化粧の代わりに疲労を纏い、優しくタカシを見つめる。タカシは、ソノコの乱れた髪を耳にかけてやり、なにも答えずキスをする。下唇を甘く噛む。空っぽの腹を満たすより先に、今すぐソノコの中を一番奥まで、自分だけで一杯にしたいと思う。ずっと、自分だけでソノコを埋め尽くしたいと思う。溶けそうに甘いため息を、「タカシくん」と消えそうに細い震える声を、耳元で聞きたいと思う。ずっと。

夕食を並べ終えた頃、タイミングをはかったかのようにドアホンも鳴らさず、鍵のかかっていない玄関から、まるで自宅に帰ってきた主のような態度で、挨拶もなくリョウが入ってきた。

「おかえり。リョウくん髪切ったね、かっこいいね。今日お休みだったんだね」

タカシが声をかけると

「んー。女ウケがいい髪型にしてくださいってたのんだんだー」

さして面白くなさそうにリョウが答えると、間髪いれず

「チャラ」

キッチンから、残業疲れと空腹でイライラしているソノコの、本心から漏れた声が、流れ落ちる水道水の音に混ざり切れず二人の耳に届いた。タカシは苦笑いを浮かべあごをなでる。

「はあ?」

すかさずリョウがソノコに噛みつく。

「今なんつった」

「別に~」

「チャラっつっただろ」

「聞こえてるじゃない」

「あのな、お前みたいにチャラチャラチャラチャラしたやつに言われたくないんだよ。あくびちゃんみたいな顔しやがって」

「ねー。もうやめない?」

天を仰ぎ、しばらく沈黙していたタカシが間に入るが、リョウは腕組みをしてソノコを睨み、ソノコは「あくびちゃん!?」とタカシの仲裁を無視して大声をあげ、目を丸くしリョウに詰め寄る。

「ひどい!あくびちゃんはチャラくないわ!あくびちゃんをバカにしてるわよね!あくびちゃんはすっごくキュートだし、一生懸命生きてるのよ!」

「はい?お前なに言ってんの。俺はあくびちゃんのことは何一つバカにはしていない。そして、お前ごときがあくびちゃんを語るな。ほんとにずれてるよな。あー、とんちんかん!」

「とんちんかん!?今度は一休さんに似てるって言いたいの!?」

ソノコが怒りのあまり赤を通り越した青白い顔色で尖った声をあげる。「ソノコ、その話前も聞いたから。違うから。大丈夫だから」なだめながらタカシの心の内には「鬼の形相」という言葉が浮かぶ。

「前にもね、とんちんかんだね。って先輩に言われたのよ!先輩って言ってもカガミ先輩は父に近い歳だわ。不自然に真っ黒に染めた髪をツーブロックにしてるの。カラスみたいに黒々した髪よ。一度食事に誘われて断ったらそれから手の平返したみたいになって。もう!そんな話はどうだっていいのよ。とにかく!とんちんかんだねって。ロープレの後よ。『パッションが感じられるし起承転結もがありながらフローも悪くないトークだね。コアも押さえてるし。でも何て言うのかな、フィーチャーの部分で時々ロジックがぶれるね。ファジーになるときがある。ファジーとも違うな、何て言うか、とんちんかん?』って。無意味に英単語を乱用して。言いたいだけじゃない。挙げ句とんちんかんて。とんちんかんてなに!?私はね、デスクに戻ってすぐググったわ。何が出てくると思う?掘り下げたら、とんちんかんちん一休さんばっかり出てくるのよ!一休さんはかわいいお顔をしてるわ、でもね、あの子は男の子じゃない!一休さんに似てるってひどい!とんちんかんって言われたあとに、クライアント先に向かう私の気持ちがわかる?一休さんばっかり浮かんじゃうのよ!?虎を屏風から出してくださいってあの知恵は素晴らしいわよね。とか、橋の真ん中を渡る機転は見上げちゃうわ。とか、それで、お師匠さんの大切な水飴はさぞかし美味しかったんだわって考えてたら歩道のポールにぶつかって転んだのよ!もう、しっちゃかめっちゃかよ!そんなんでお客様のところに行ったら、『疲れた顔してるね、大丈夫?』って言われたのよ?お客様に大丈夫?なんて言われちゃう営業ってどうなのよ。商談が成立するはずがないわよ!でもね私だって、こう見えて一生懸命生きてるのよ!」

お師匠さんとは和尚さんのことを言いたかったのだろう、と考えながらタカシの心の内には「満身創痍」という言葉が浮かぶ。

「お前さ、さっきからなんの話をしてるの?俺は今、お前のとんちんかんぷりに鳥肌がたったよ。脱線にもほどがあるだろ。いよいよお前の天然も末期だな、もう俺は心配しかないよ。しかもそんな、父親に近いような歳の、胡散臭い男から誘われて。全身隙だらけ。チャラさも末期だな。そして、一休さんにもあくびちゃんにも失礼だ。謝れ。ついでに、その、役職名が何だ?あー、先輩か。役職が先輩の、カガミ先輩だかカラス先輩にも謝れ。お気持ちお察ししますと、俺が言っていたと伝えろ」

「なにそれ!リョウくんが先に謝りなさいよ!」

両者がもはや何に怒っているのかわからない、意味不明の攻防が続き、常、二人のケンカを見慣れているとは言え、ほぼ一日中パソコンと向き合っていたせいで肩がこっているタカシは、一層肩の重みが増すのを感じた。

「タカシも大変だな。これに付き合って」

ソノコの涼やかな目をにらみつけながら、リョウが呟いた、ため息混じりの一言に、ソノコの頭の中からカチンと音が聞こえた。タカシが「リョウくん」と強い声色で呟き、何かしらの気持ちを燃料にして静かに燃えているリョウの、緑がかった瞳を見据える。

「はー?じゃあ、なに?リョウくんはどういう女の子がいいわけ?リョウくんは!」

勝ち気で男勝りなソノコが、白く華奢なアゴを突きだしリョウに詰め寄る。「ソノコ、声掠れてる」タカシはソノコの華奢な肩を掴む。

「お前には関係ない」

ソノコから視線をそらし、ついさっきまでの口喧嘩とは声色の違う冷えた音でリョウが苦々しく、握り潰したゴミを捨てるように呟く。

「はい、もうやめ。ご飯にしよう、お腹すいたよ」

タカシは平静を努めて笑うと、リョウの肩に手を置く。リョウがドスンと音を立ててソファに座り、ソノコが鼻を鳴らしてキッチンに戻ると、タカシはリョウの背中を見つめた。


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