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支援するということ

支援や人助け。

オンラインで様々な繋がりを持てる現代では、遠い地での人種差別や貧困、また災害復旧への援助が、スマホから容易に行えるようになりました。私も、ほんの気持ち程度にですが、ご協力させていただくことがあります。

その支援によって、どれほど沢山の人たちが救われることか。こういう活動に取り組まれている方々、本当に尊い存在だと思います。

ただ、私の心の中で何か引っかかっているものがありました。よく分からないけど、違和感のようなもの…。

そんな中、あるSNS掲示板で見かけた言葉に、涙が止まりませんでした。

パニックを起こしてしまった彼がケガをしないように、支援者は自身の身体で彼の拳を受け止める。こうしてできたこのアザの痛みは決して僕のものではなく、彼自身の心の痛みだ。

発達しょうがい児の支援をされている方のお言葉。

身体で拳を受け止める。自己犠牲ともいえる行為に、畏敬の念を抱かずにはおられません。

でも、私が心を撃ち抜かれ、涙を流したのはそのあとに書かれた、アザの痛みは僕のものではなく、彼自身の心の痛みだ、というところ。

実際に、支援を必要としている人がいる。
でも、第三者から見れば、ただの暴力を振るう人。
そんな彼に対してこの方は、見えない心に寄り添い、支援の手を差し出してみえる。

私は、妻と共に発達しょうがいの娘を育ててきました。
2人とも、腕を掴まれたり噛みつかれたりして、アザだらけになっていました。

でも、思っていました。
本当は、この子だってこんなことやりたく無いはずだ。噛んでしまった後に、申し訳なさそうな顔をする。

自分の意思表示すら、うまく出来ない。
まず分かってもらえない、自分のこと。

社会から、存在すら認められ難い。

私は、支援が必要なのか理解され難い、このような人達にも是非支援の目を向けて欲しいと思う。


会社において、ある担当者の業務で問題が発生した場合、解決のために皆でフォローすることになります。

一体感を持って全員で取り組む。
これは素晴らしいことだと思う。

でも、そのメンバーの中で、事情を抱えていて本当は都合が悪く、早く帰りたいのだが言い出せず、無理して一緒にフォローに入る、という人もいると思う。

私は、わかりやすいヘルプだけではなく、そういう人を見逃さないように、配慮したいと思う。


10年と少し育ててきた娘を、昨年亡くしました。

娘につけられた腕の傷が少しずつ癒えていく。
ものすごく、寂しかった。


でも、娘が必死に訴えかけていた本当の心は、ずっと忘れません。

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