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我が家のできごとー失敗の記憶 2/3

昨日に引き続き。

決定的な異変に気がついたのは、六年生の春の運動会。競技を待っている目が、明らかにウツロ…。
運動が得意な子ではないので、運動会を楽しむ事は難しいかもしれないが、それにしてもおかしい。

普段、自宅で見せている顔と違う。

6月に入り、学校を一週間欠席した。
単なる体調不良だと言う。
その言葉を信じようとしました。

気晴らしにと思い、家族でドライブに行ったり。
どうした? 大丈夫か?
うん? なに? 大丈夫だけど。

学校に行ったり行けなかったり。
もうすぐ夏休み、ゆっくり休んで二学期になったら行けばいいよ。位に、軽く考えていました。

夏休み期間中、続けてきたエレクトーンの発表会で初めて地元の発表会を勝ち上がり、地区大会へ。ここでも表彰されました。教室の先生やメンバーと喜び合う姿を見て、私たちも嬉しかったし、少し安心しました。

二学期が始まりました。でも、回復の兆しはない。

そして、秋の修学旅行…。
ここで私達は大失敗をしました。
無理やり参加させたのです。

あの時の私達には、学校生活での行事への参加は「あたりまえ」だったのです。卒業アルバムを見て、自分が参加していない思い出を、この子に残したくなかった。ピースが欠けるのは可哀想だと、勝手に思っていました。

そして、昼夜逆転が始まりました。

ずっと続けてきたエレクトーンも、やめました。

卒業式の日、先生方が自宅まで来てくれました。
お声がけいただきましたが、布団を被り、出てきませんでした。いやだ、こわい、と言って泣いていました。

中学に上がり、本人も学校へ行こうとがんばりました。

最初の二日は、友達に迎えに来てもらい、一緒に行ってくれました。どうか、このまま続いて欲しい…。

でも、校内を案内している時の先生の言葉に心を閉ざしました。詳しくは聞きませんでしたが、支援級のことを冷たく扱っているように感じたみたい。

二年生まで在籍しましたが、2度と登校する事はありませんでした。

三年生に上がるタイミングで引越し。転校しました。

新しい中学は、私の目から見ても素晴らしい学校でした。学校に漂う空気が澄んでいる。そう感じました。

一学期は学校に行けませんでした。でも、不思議とそれでもいいよって思えるようになっていました。

中学三年生となれば、進路問題がやってきます。
三年一学期まで、授業に全く出ていない。
通知表は無評価。
それでも夏休みの間に目標を決めてくれた。

私も、過去問題を入手に行くなど応援しました。

二学期から、保健室登校を始めました。
最初は1時間だけ。少しずつ、勉強を教えてもらいながら。ここから、三年分の遅れを取り戻します。先生が驚くほどの学力がついていた。ほとんど独学で。

高校は、自分のペースを大事にできる単位制へ。
でも、二学期から行けなくなりました。
やはり、無理なのだろうか。

一年生の秋、学校をやめたいと相談されました。

私は、無理して行かなくていいから、とりあえず籍は置いておけ、と話しました。

中学3年間、授業を受けずに自力で掴んだ高校だよ、誰にでもできる事じゃないし、パパにもできない。しかもあなたは不登校を経験し、さらに障がいを持つ弟や妹のことを、ずっと見てきた。人の心の痛みがよくわかるはず。同じような境遇の子たちに、心から寄り添うことができる。小学生の時、届かなかった声。もしあなたが先生になったなら、きっとその子の声をあなたは聞くことができると思う。
これからは、学歴が関係ない世の中になっていくとは思うが、将来やりたいことが見つかった時、きっと役に立つよ。高校卒業の資格もだが、何よりも自力でやり遂げたという自分の実績が、自分を助けてくれるから。

それから、いろいろ話をしてくれました。

毎日、ヘッドホンして電子ピアノを弾いている。
詩や曲が降ってくるから、ノートいっぱいに書き留めている。それを演奏している。

多分、みんな見えていないけど見える時がある。
ある時、店舗の駐車場から出る時に突然、あっ、そっち見ないで。悲しんでいる男の子がいるから、とゾッとするトーンで教えてくれたこともあった。

この子にもこの子の世界があるんだよね。
親の世界を押し付けるのは、絶対やっちゃダメだ。
全部、信じるよ。だって、あなたにはそれが事実。

二年生になり、毎日学校へ通い始めました。

嬉しかった。何よりも、自分のやりたいことを見つけて動き始めてくれたことが。


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