こころの荷物
人生で出会う出来事を、荷物にたとえると…
右手に感じる事をプラスー快
左手に感じる事をマイナスー不快
どちらで持つのかを、自分で選べなかった赤ん坊の頃は、周囲の人達が手に握らせてくれました。
これは右手に、これは左手にと。
物心(判断基準)ついた頃には
手に吸い付いてくる様になりました。
考える間も無く吸い付いてきて、離れません。
そして悩み考えます。
左手にくっついた荷物は減らしたい。
でも、左手と一体化した荷物は、もはや荷物であったことも忘れ、自分自身だと思い込んでいます。
とても不快な事が起こった時、左手は千切れそうなほど引っ張られます。痛い痛いと辛くなる。
自分の手で、自分で持ち上げている荷物だと思い出せれば、地面にそっと置く事が出来るのに…。
そして悩み考えます。
右手にくっついた荷物は増やしたい。
右手の手応えは、感じるほどに快感で、
もっともっとと際限なく欲しくなる。
もっと多く、もっと大きく、もっと重いものをと。
あの荷物を持ちたいと、激しく思う。
より高みを目指す向上心、
自分の価値を高めるために必要な感情。
でも、ある時に気付いてしまいます。
もし、目の前のこの荷物を右手に持てなかったら、自分はどうなってしまうのか? 不満足な毎日になってしまうのか…。
右手に持ちたいこの荷物も、自分の意思とは関係なく、ある日突然左手に吸い付いてくる事もある。
右手と左手に持った荷物は、総重量そのものに価値を感じる。これだけ苦労したのだから、こんなにも成果を出せたのだからと。
私は思います。
左手に持っても、右手に持っても、荷物は荷物。
心は確実に疲れます。
誕生してからあの世へ旅立つまで、沢山の荷物を持ち上げます。それは、荷物だったと認識できた時に地面に降ろせます。すると、荷物から解放された心は、じんわりと心地よくなり、活力がみなぎってきます。とても温かく感じます。
荷物を降ろす毎に心はまっさらに近づいて、
本来の自分の姿を取り戻します。
でもね、荷物をたくさん持つことも
悪いことじゃ無いとも思う。
荷物を持った分だけ、心に筋肉が付くから。
人としての意識があるときだけ可能な
心を鍛錬する為の喜怒哀楽を味わうこと。物事すべて、表裏一体。悪い面もあれば、いい面もある。
心の片隅には感じておきたい。
その荷物を右手で持つのか、左手で持つのかは自分で選ぶ事が出来る、単なる出来事だという事を。
一度持った荷物は、自分と一体化した訳じゃなく、いつでも降ろすことの出来る単なる出来事だという事を。
そして自分の価値とは、持った荷物の重さや種類じゃ無い。それを掴んだ手であり自分そのものこそ、そのままで価値ある存在なのだと、私は思う。
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