眼鏡に映った映像
今までの様々な選択の結果として、今の自分がある。
何となく生きている自分でも、改めて思い返してみた。
おそらく初めて自分で選んだ道は、高校選び。
誰に相談するでもなく、一人で決めた。なんとなく。
決定する時に、親に多少反対というかガッカリされたけど、だからといって決定を変えなかった。
就職先も、自分で決めた。なんとなく。
特にこの仕事がやりたいとの強い思いがあったわけではなく、不思議と他の道は目に入らなかった。
長い間勤めてきて、やり甲斐を感じ、楽しくやれてきている。良い会社に巡り会えた。
仕事に呼ばれたんだと思います。
一方で、悩んだ末の選択がある。
家庭を持って数年、手狭になった部屋を出て引っ越した。引っ越し先は私が探し、内覧前に一人で確認に行った。何となく嫌な予感がした。夜ではあったけど、玄関に暗いものを感じました。
でも、焦っていた私は内覧で妻と子供がすごく気に入ってくれた事もあり、そこに決めた。
やがて、子供たちの障害や不登校に苦悩することに。
仕事でも、結果を出せず苦しい時だった。
そして、環境を変える必要があったため、再度引っ越すことに。
今までの借家から自家へ。
予定地を一人で見に行きました。
その時の印象が忘れられない。
身体中の血が逆流するかのような、強烈な拒否感を感じました。今、思い返してみても、只事ではなかった。
でも、妻や子供たちの喜ぶ顔が見たくて、それが自分が望むことなんだと言い聞かせてそこに家を構えた。
入居初日から、心が休まらない。
そんなある日、仲の良い友人と久しぶりに会う。
その日は雨だった。
あの時、普段通りの時間で切り上げて帰宅していれば…
そもそも、引っ越してきたのがいけなかったのだ…
自分の心に従った選択が、できない事もありますよね。
自分の心の満足よりも、大切な人の笑顔を守りたい事、ありますよね。でも、私は誰の人生を歩んでいるのか?
つい先日まで、そう思い悩んでいました。
ところが、今日はそうでもない。
これ、最初から全部決まっていたんじゃない?
良いことも良くないことも、その事に意味なんてない。
最初からストーリーが決まっている映画を観ているのと変わらないや。筋書きを知らないから、喜びや怒り、哀しみや楽しみは沢山起きる。
きっと、私は仕事に恵まれるが、家庭では苦労するというストーリーを生きている。
昨日、映画を観に行きました。
形見の眼鏡に映った映画の映像、レンズに反射したその様子は、生前テレビを見ていた時と変わらなかった。
見る者がいないというだけで、映像は変わりなく映し出されていた。
その眼鏡は、こう語りかけてくれました。
「現実は、眼鏡を外せば横に置くことができるよ」
「現実も映画も、映像や音声なんだからね」
「映画、楽しいね、泣けるね、それといっしょ」
「だから、起こることに苦しむことない、楽しもう」
「だいじょうぶだから」
眼鏡を外に持ち出したのは、今回が初めてでした。
出かける時、なんの迷いもなしに手に取りました。
きっと、行きたかったからなのでしょう。
きっと、教えたかったからなのでしょう。
コロナ禍で、座席に余裕があったので、眼鏡によく映るように横に置いて一緒に見ました。
時折、そっとフレームをなぞりながら。
おかしな話ですが、私はこう思ったのですから
それでいいですよね。
だって、
その方が楽じゃないですか。楽しいじゃないですか。
起こることすべてが、人生を味わうための喜怒哀楽を沸き立たせるためのストーリーだったとしたらさ、最初から幸せしかないんですよ。
こんなに面白いこと、他にはないよ。
そう思えた今朝、ふと子供の頃を思い出しました。
ジャンケンで勝って、少しだけ大きなケーキを手に入れた時、飛び上がって喜んだことを。
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