5月30日(日)

去年あまり上手に育てられなかったパクチーが今年はぐんぐん育っている。春先に大きなポットに直播きして寒さが終わった頃にゆっくりと芽を出し始めたパクチー。嬉しく眺めていたら、ついにポットから溢れるように葉っぱが茂ってきて、今週末はパクチーをたくさんつかってベトナム風の料理をいくつか作ろうと思っていた。青紫蘇やニラも少し採れそうだ。ちょうど友人と会うことになっていたから、それならうちでアジアっぽいおつまみとビールにしよう!となって、朝から下ごしらえをしたり合間に部屋を片付けたり。ベトナムの生春巻きと揚げ春巻きに初めて挑戦して、鶏肉入りの春雨サラダも作った。その全部にパクチーがたっぷり入っているか付け合わせの主役になっている。パクチー収穫祭。初めて作るものが二つあるとやっぱり手間取って、少してんてこまいな感じで午前中が過ぎて行ったけれど、用意している時間、テーブルにあれこれ並べている時間も含めて、もちろんハイライトは友人との時間だけれど、楽しい一日だった。今日を思う存分楽しみたくて、昨日はやりたくないことをやる日と決めて終わった後に何も残らなくても終わらせなくてはならないことをいくつも片付けておいた。それで1日全部を楽しむために使うことに普段なら感じる後ろめたさも感じることもなく、全部を満喫できた。

友人が帰ったあとソファーで楽しかった余韻に浸っていたら末っ子がお腹が空いたと言うので、夕食に約束していたクリスピーチキンバーガーに入れるコーンフレークの衣をつけたチキンカツを揚げた。私は揚げ物がとても好き。食べるのもだけど(とってもビールに合うから。)、食べるのと揚げるのとどっちが好きかと聞かれたらすぐに答えられないくらい、揚げるのも大好き。どの本でだったか忘れてしまったけれど、吉本ばななさんが、「揚げ物を揚げているとき、幸せな気持ちになる。」というようなこと(記憶が曖昧でごめんなさい。)を書かれていたのを読んだとき、ずっと大好きで本を読んできたばななさんも!と、とても嬉しくなったのを覚えている。(どの本だったかな・・・)

少し味をつけたお肉に粉をまぶして、卵液にくぐらせて、パパッと、ぎゅうぎゅう押さえずに、でもつけ残しのないようにパン粉をつけて、ぐにゃっとしてるのをバチバチ言わせながら油の中に衣が壊れないようにそっと、でも素早く入れる。油からあぶくが立つようになって、衣がだんだんと硬くなっていく。パチパチとかシューッとか、美味しそうな音がする。フライパンの底からスッと浮くような感じになると、外側からだんだん色が変わってくる。ひっくり返すタイミングを待ちながら、縁飾りのように色が少し濃くなった輪郭のところをそっと菜箸で触れてみる。小さくコツンと音がしそうなくらい縁がしっかり揚がっていたら、菜箸をそっと下に差し込んでそこでもカリっとした感触にぶつかったら、菜箸を少し開いて一本でフライパンの底に衣がくっついていないか確かめながら引き上げて、ひっくり返す。下側になっているところと上の色がちょうど同じくらいの濃いめの狐色になるころを見計らって油が切れるように角度を変えながら、隣に用意しておいた金網の上にカサッと置く。こうやって書いているだけで、気持ちが高なるくらい、揚げものが好き。よく冷えたビールを飲みながらだと最高だけど、ビールがなくても揚げているだけで十分。

もう随分前のある日、電車の中で知っている人とばったり会った。私たち家族の生活について誰かが作り変えたストーリーを情報源に想像して遠回しな批判まじりの不可思議なコメントをいくつかした後で、何度か食べ物を持ち寄るような会で一緒になったことのあるその人は私の作る唐揚げが好きだと言った。どうやったらあんな風に揚がるのか、教えて欲しい、と言う。実は、唐揚げとかきつねうどんとかカツ丼のような「日本の食べ物(和食というのもちょっと違うと思うので末っ子の表現そのままで。)」を作るようになったのはこの10年ちょっとのことで私の中では比較的新しくて、だから、「本に書いてある通り作ってるだけなんです。よかったらレシピを送りますよ。」と答えたあと、ちょっと素っ気なさ過ぎたか、と思って、「私、揚げ物が大好きなんです。何か揚げてるときって幸せな気持ちになるんですよね。」と付け足した。すると、「いいなあ。私もそのくらいのことに幸せを感じられたら、もうちょっと楽しく生きられるのかもしれないわ。」という言葉が軽い笑いと一緒に返ってきた。

「ふざけるな!」と思った。そんな言葉の代わりにその頃の臆病な私から出てきたのは曖昧な微笑だったけれど。(今なら、いくつか歳をとった今ならきちんとした返事ができるだろうと思う。歳をとって、怖いものが減った。)「何かを揚げているとき、幸せな気持ちになる。」そのたった数分あるいは10数分の幸せな気持ちを持てる、感じられるようになるまで、その数分の幸せを深呼吸するように味わうことができるようになるまで、どれだけのことをくぐりぬけてきたか、もうダメだと思ったときどこかから湧いてきてくれた力を振り絞ってどんなことを飛び越えてきたか。外から見たら変なところばかりの家族かもしれないけど、それは私たちが色々とイレギュラーなことの多い関係の中、必死でつなぎ合わせて守っている家族でもあることを考えて言葉を選ぶこともしないあなたに、私の何がわかるかと言いたくなった。人一倍苦労してきたとか、そんなことを言うつもりはない。でも、私にとって、「揚げものをしながら感じる幸せ」はただのおめでたい性格(たしかにときどき自分でもおめでたい性格だな、と自分の能天気に呆れるけれど。)なんかではなくて、雨や嵐や吹雪のようなたくさんのことを長い時間をかけて、大事な人を道連れにして、通り抜けてきた先でふと気がつくと降ってきていた陽だまりみたいなものなんだよ、と思った。小さなこと、何でもなさそうなことに、些細なこと、ありきたりのことの中に、あるいは中で、幸せや、安堵を見つけること、見出すこと、見つけられることができるようになったとき、それは後ろを振り返れるようになった時でもあって、それまでどんな荒れた道を裸足で歩いてきたのか、初めてわかったような気がした。(もちろん、道の途中でたくさんの優しい人たちが靴を差し出してくれて、その人たちには感謝しかないです。)その長い荒れた道とぽっかりと現れた優しい陽だまりの両方が、「揚げ物をしている時の幸せな気持ち」の中にあるから、あの時、あんな風に軽く笑われたことが嫌だっんだと思った。

そんなこと、いつまでも覚えていなくてもいいのに、と思う。役にたつことが多い自分の記憶力だけど、こんな時は嫌だなとも思う。でも、こうして言葉にして、何が嫌だったか、わかったからもういいんだとも思う。だから、楽しかった1日の最後にこうして思い出して書いていても、嫌な気持ちはもうしない。(読んでいて嫌な気持ちにさせていたら、ごめんなさい。)逆に、「揚げ物をする」ことがどんなに難しいことか、せかせかしなくてはならなかったらできないし、他のことをしながらできることではないし、子供たちが小さかったころは危なくてできなかったし、材料の新鮮さとか、揚げたてを食べられる状況とか、もう一度気がついて、揚げ物をする時に幸せな気持ちになることは能天気なんかじゃないと思った。だって、少しの余裕がないと、美味しい揚げ物を作ろう、という気持ちにはなれないし、そう思えなかったら楽しくも嬉しくもないのだから。そして、「余裕」はいつだって貴重で持てることを感謝するべきものだから。

とにかく、今日は、楽しい1日だった。友人が初めて作ったあれこれを美味しい!と喜んで食べてくれたこと、とっても嬉しかった!久々に会って浮かれて話が飛んでゲラゲラ笑った。またこうやって家を開いて人を招いて楽しく料理したいなあ、と思った。

(鉢から溢れそうなパクチー。生春巻きと春雨サラダと揚げ春巻き、「春」がつくものが3つ並んでいたことに今気がついた。心躍る揚げ物。)

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