田口さん

 僕が社会人になって1年目、隣の班に田口さんという人がいた。瘦身で背は180cm近くあり、年齢は両親の1個上というのを覚えていたから当時で51歳か。まさに出勤初日、いきなり田口さんに倉庫に連れていかれた僕は、赤や緑のネットに入った大量の大豆の束を見せられ、「おめえ野球部だったんだべ」と言われてそれをコンクリートの壁にたたきつけるよう指示された。乾燥した大豆の莢(さや)から中の豆を取り出すのが目的で、僕は素振りの要領で片っ端から粉砕していた。想像していた社会人像と違うなあと思っていたらこの作業は僕の業務と何の関係もなかったらしく、帰りがけに「田口さん、うちの班の子なんで」と班長に苦言を呈されていた。

 田口さんは普段からあまり事務所にいなかった。現場にいるのが好きな人で、技術力や見る目は確かだから外では絶大な信頼を得られているらしい。ただ、田口さんが内部の事務作業をさっぱりやらず、申請すらしないものだから隣の班では残業代がほとんど出ていなかったようだ。これは僕の1期上の加藤さんが教えてくれた。隣の班員は、破天荒な田口さんとあまり関わりたくないのか不満はあるけれども現状を受け入れていた。それでも加藤さんは田口さんを尊敬しているようだった。田口さんと加藤さんはよく2人で現場に出ていた。僕が入社する前の年から2人は師匠と弟子のような関係だったらしい。もっとも加藤さんから聞く田口さんの話は、運転しながら鯖缶を食べていたとか、山道を150km/hで走行してタイヤを少し焦がしただとか、インパクトの強いものばかりだっただけにどうしてそんなに崇めているのだろう、と不思議だった。

 僕も何度か田口さんと現場に出たことがあった。移動中の車内で聞く田口さんの話は、業務の具体的なアドバイスよりも「人生とは、生き方とは」みたいなところに繋がっていたように思う。例えば「プロの友達をたくさん作れ」と田口さんはよく言った。要は何かしらで一流の人間と仲良くなれば自分が困ったときに助けてもらえるのだと。僕はプライベートと仕事を混同するのも打算的に人と付き合うのも苦手で、うまくいかないと自覚しているので同意はできなかったけれど、「その方が楽しいべ」と言い切る田口さんを見ているとそれが間違っているとも思えなかった。田口さんは割と誰にでも人当たりがいいけれどリアリストなんだと思う。友達は多いけど選んでいる。好きに自由に楽しく生きるというのを体現したような人だからこそ現実を生き抜くすべをわかっている。そういう、自由で強いところが格好いいなあと僕は思った。あとは加藤さんがあんなに頑張っているんだから残業代を出してあげてくれとかそういうのはあるけれど、数量限定500円の海鮮丼ランチをおごってもらったのも覚えているし、僕から田口さんに言いたいことは別にない。寝袋を持ってきて事務所に寝泊まりしていたとか、急に飲み会を抜けてしばらくして帰ってきたと思ったら「今結婚してきた」となぜか合間に婚姻届を出しに行っていたとか、田口さんにまつわるエピソードは多分にあるんだけど、所詮又聞きのものばかりなので大きい顔をして話すのも気が引ける。田口さんはその次の年に異動したので、一緒に働いたのは1年間だけだった。


 それから早くも6年の月日が経ち、僕も当時の事務所から何度かの異動を経て、4月からまた新しい事務所に配属となった。


 同僚数名と昼食をとっているときに何気なく田口さんの話題を出してみた。田口さんは他部署でも変わり者として有名だから何かしらリアクションが返ってくるだろうと思った。ところがそうではなくて皆一様に気まずそうな顔になった。


 田口さんは去年亡くなっていた。すい臓かどこかに突然病気が見つかってそのまま、ということだった。僕が育児休暇中の出来事だったから全く知らなかった。頭をよぎったのは加藤さんのことだ。加藤さんも度重なる異動で、当時と全く違う分野の業務を担当していて忙しそうだったから、田口さんと継続して連絡を取っている、ということもないのだろう。それでも当時の師匠の訃報を聞いて加藤さんは何を思ったのだろうか。たった1年隣の班にいただけの僕とは違う。しばらくは、断片的なエピソードを中心に田口さんのことを思い出すだろうけど、またすぐに忘れる。加藤さんはきっと、あの頃の日々を回顧するとほとんど隣に田口さんがいるのだろうと思う。加藤さんが田口さんと過ごした日々はつながっていて、そういうのを考えていると心が苦しくなる。

 田口さんの訃報を知らない社員も多いらしく、それだけ急であっけなかったということなのだろう。「それも田口さんらしいよな」と同僚の1人が言い、同意する。最後までアクセル全開で駆け抜けた、のだろうか。そこまではわからないけれど、さすがに150km/hは出しすぎじゃないですか、と今更ながら言いたくなる。








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