A.L.ゾルバ

作文の練習、はじめました。(シーズン2)

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梶井基次郎の檸檬に出てくるびいどろの味

 梶井基次郎の檸檬は有名な作品だ。作中で主人公が挙げる「見すぼらしくて美しいもの」の中に、「びいどろの味」がある。 あのびいどろの味ほど幽かな涼しい味があるものか。  これを読むと、あの日、夕日の射す畳の居間で、口に含んだおはじきの味がよみがえる。小さな正方形の座卓に、ぶちまけられた透き通るおはじき。夕日がつくる、赤青緑の、縁取りのように輝く影。そして温められた畳の匂いまで。  読むたび心底共感している。今日は、僕の共感をまとめてみようと思う。 「涼しい味」  「

    • 深夜の海

      海は死の表象 パンフレットにそうあって、海に行こうと思った。 草の響き 雨は降って、やんでいた。 電灯がつく商店街を歩く。 取り壊された寮の前を行く。 車の並ぶ旅館の裏を過ぎて。 漁火通りに着く。 漁火はない。 雲がよく出ていてよかった。 街の灯りが空いっぱいに伝って明るい。 砂浜の形は覚えている。 そこに段差、向こうから周って 潮が引いていく。 テトラポットは埋まっている。 突き出たところに腰を下ろす。 海はそれなりに波立っている。 マスクを外す。 砂粒をひとかけ

      • 時計の読めないこども

        忘れられない記憶というのは、日常に潜んでいた。そのひとつを思い出して、書きたくなったので書こうと思う。名付けて「0.5分問題」だ。 0.5分問題 0.5分は紅茶の抽出時間だ。 ちょうどおやつ時、母は紅茶を飲もうとしていて、それを自分はつくりたかったんだと思う。袋にはやり方が書いてあって、「お湯を入れて0.5分」とあった。0.5分は秒にすれば30秒だ。 しかし小学2年生の頭には、それが全く理解できなかった。小数の書き方は知っていたが、それがどのくらいの長さか想像がつかなか

        • 浴そうに 深く張られた湯船の色と 朝の光の色とは同じ

          お湯につかる。 お湯につかるたびに、 「ああ。今日もまた、無事この湯を獲得することができた。」と思う。 「この熱も、この水圧も、僕が、本日の労働で得たものなのだ。」と思う。 そう思うのは、単に僕が、あつい湯につかるのを好んでいるからかもしれない。 しかし言い過ぎでもなく、そのくらい、僕にとっては重要なことだ。 学生の頃、夜通し何かにふけっては、朝方風呂 に入り登校するというのをしばしばやっていた。 大抵電気を消した時の、カーテンからこぼれた光で現実に戻った。 光

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        • シーズン2
          7本
        • シーズン1
          26本

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          だっする

          玄関が開かなかった。 賃貸会社に電話をするにも、 スマートフォンは圏外だった。 このままでは遅刻だ。 窓も開かなかった。 ゆする隙もなく、 動かなかった。 いよいよ遅刻だ。 壁に向かって話しかけた。 どうやら誰もいないようだ。 そういえば、 外の音が聞こえない。 あれからどれだけ経ったのか、 もはや思い出すこともない。 眠った数を数えていたが、 100回超えたあたりでやめた。 歌っては眠り、踊っては眠った。 この多細胞システムにとって、 それは素的

          のがれる

          しがみつくような気持ちで生きていた。 両手を握りしめる感触すらも、支えにして生きていた。 それは祈りのようだった。 失敗なく、迷惑なく過ごせるようにと、 自分に対する祈りであった。 ある日、仕事を辞めた。 十日後にはこの家を出なければならない。 服もソファーもテーブルも捨てた。 (積み上げた本と食器は捨てられなかった。) 職場にはせんべいの箱を送った。 あとはギターを弾いて過ごした。 その日、家に帰った。 両親がいて、妹がいた。 両親はなにも聞かなかった。 聞いて

          ちから

          最近の寄付はキャッシュレスだ。 難民支援の寄付を募る、熱心な人がそう言った。 七十億米ドルが足りない。見通しの立つ資金がいる。 それは確かにその通りだった。 ある日一億円が当たった。 気をつけなさい、と誰かが言った。 それはちからであるからにして、 決してお前ではない、と言った。 次の連休は銀行に行った。 くじは本当に一億円だった。 五万円を財布に入れたが、 それは大して変わらなかった。 少し考えるとそれは、 九十二万米ドルであった。 どうしようかと迷ったが

          三月二日、モモの時間を認知する。

           マンドリンサークルの卒業演奏会に行った。大事な友人の節目だった。新しい代の演奏は頼もしくて、ああよかった、という気持ちになった。  アンサンブル、合奏。どれも水に形容できるようだった。水に形容できる流れがあった。  あるものは炎天下の中、ぬるくなった波のプールのように、あるものは湯舟の底で、身じろいだ時の対流のように。そこら一体に演奏が満ちていて、僕は耳まで浸かって揺られていた。  明確な感慨はないのに、何度か涙がこぼれそうだった。  そうした流れを感じたとき、どうし

          三月二日、モモの時間を認知する。

          自覚なき一人称視点

           アンナ・カレーニナの千秋楽を観劇した。ライブビューイングで。  この時期に遠征したらつらいに決まっている。けれど、このキャスティングは恐らくもう見れない、と思ったらチケットを取っていた。  千秋楽パワーはすごかった。4回ものカーテンコール。目の前でしゃべっている美弥さん。上演中に見せる技術やオーラとは一転、ゆるいあいさつに、ああこのギャップが好きなんだなあとぼんやり思った。  自宅に帰ってきてシャワーを浴びているとき、ふと鏡に目をやると、自分が見えた。そこで、自分の視

          自覚なき一人称視点