論理イメージ読解:本当の「英語読解」は日本語訳じゃないという話

日本語訳のせいで英語ができなくなる、という話を書きました。でもほとんどの人にとって英語の勉強といえば文法と「日本語訳」だったはずです。いきなり日本語訳するなと言われても、じゃあどうするの?という感じでしょう。英語講師として僕もずいぶん悩んだことですが、10年ぐらいの試行錯誤の結果ようやく見えてきたものがあります。

というわけで、そもそも「読解」とはどういうことか、そして何をすれば英語ができるようになるのか、具体的に説明していきます。僕は大学受験専門の英語講師なのでその立場からの話にはなりますが、英語を学びたい人なら誰にとってもヒントになるんじゃないかと思います。

日本人には読解=日本語訳という見方がおそろしく根深く浸透しています。ここからおかしいんですよ。日本語の文章も当然「読解」というものがありますが、じゃあ日本語の文章の読解は何かと聞かれて「英語訳」とか「中国語訳」と答える人はまずいません。にも関わらず、なぜか英語の文章の「読解」となると、ほとんどの人は「日本語訳」したがる。

これはまあ、おおよそ中学高校での英語の授業がずーっと「読解=日本語訳」だったから、という理由でしょう。ところがこれが英語のできない日本人の元凶になっているというのは前の記事に書いたとおりです。

じゃあ「読解」とは結局のところ何なのか。


例えば、こんな文章があったとします。

高層マンション最上階の部屋のソファの上で悪徳高利貸が死亡している。胸部にはナイフで刺したような痕があるが凶器はない。部屋の中はソファの上の血痕を除けばいたって整然としている。入り口のドアは施錠されていて鍵は被害者の衣服のポケットに入っている。

これを読んで「密室殺人だな」と思えるのが読解と言ってよいでしょう。さらに読解力が高いと「知り合いが犯人かな?」などと予想することもできます。
逆に「密室殺人だな」と言われてもなんのことかよくわからなければ、この文を何語に訳せたところで読解できていないということです。

そもそも、文章というのは最初から存在するものではありません。最初は言葉でなかった何かがあって、それを誰かが言葉に変換した。それを「読解」するというのは、言葉をその「何か」に再変換することです。


文章を書く  何か → 言葉
文章を読む  言葉 → 何か


この、「言葉 → 何か」の再変換プロセスが本当の意味での読解です。

さっきの高利貸し殺人事件もそうです。言葉で書かれたことを部屋の様子に再現してやらなければいけない。それによって出入り口が無いことや、争った形跡なくソファの上で正面から刺された(つまりおそらく顔見知りに刺された)ことが理解できるわけです。言葉だけを追ってそれを別の単語の羅列に変換したところで、「密室殺人だな」とわからなければなんの意味も無い。

要するに、読解とは「想像」なのです。筆者の書こうとしたもともとの「何か」を想像するわけです。


読解とは「想像」だと言うと、昔ながらの英語学習になれた人ほど、「雰囲気で読むのか」と誤解します。当然違います。
さっきの高利貸し殺人事件を雰囲気で読んで「密室殺人だな」とはならないし、ましてや「知り合いが犯人かな」などとはならないでしょう。こういったことを理解するには、文章に書かれていることを論理的に理解し、それに基づいて正確なイメージをつくらなければいけない。「雰囲気で読む」のとは真逆です。

とはいえ、この誤解もある意味では仕方ない側面もあります。「想像」というものは、雰囲気とか頼りないものとか、とにかく論理的なものとは対極にあるものという固定観念が少なからずある。なので、以降はこの読解を「論理イメージ読解」と呼ぶことにします。そういうキャッチーな名前がある方がプロ講師っぽく聞こえるし。

論理イメージ読解はまだ発展途上なのでさらに研究が必要なんですが、とりあえず現時点までに確立した考え方や練習方法を少しずつ説明していきます。

自分で言うのもなんですが、論理イメージ読解は僕の生徒たちが英語力を伸ばすのに大きく役立ってきました。これを読んでいるのが大学合格を目指す人なのか、もっと別の理由で英語ができるようになりたい人なのかわかりませんが、きっと役に立つはずだと思っています。


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