ゲームとはなにか?
2020年3月からボードゲーム作りに手を出し、制作からゲームマーケット参加までを一通り経験しました。
この経験を通して得られたのは、
・趣味を同じくする人達との出会い
・新たな友達
・100%自分の手で作ったボードゲーム(現物)笑
大げさではなく、人生の豊かさが得られた貴重な経験でした。そして人間というのは一度良いものを得ると「また欲しい」「もっと欲しい」と思うもので、私もまた新たなボードゲームを作って遠くにいる友達やまだ見ぬ仲間と遊びたいと思ってしまうわけで。
ゲームになりそうな”種”をノート(リアルなほう)に書き留め、思いつくままにピックアップした種を1つか2つずつ、育てて形にしようとしています。ここでもやはり欲深さが出てしまうわけで、「処女作よりも完成度の高いものを」「もっと面白いものを」と考えて一定の水準では満足できなくなっています。
とまぁ、そんな状況なわけですが、自分の殻を破る(成長のハードルを越える)時って、ちょっと頭でっかちになりがちというか、考え事が増えてきます。自分の場合、越えられそうで越えられない壁まで来ると一旦思考がその物事(今回の場合はゲーム)の本質に向かおうとする動きが生まれてきます。そこで折角なので(?)このnoteに書き留めておこうかなと。
前置きが長くって文章としてはすでに駄文ですが、本当にこれ以降も駄文乱筆激しいと思います(笑)文章校正なしの思いつきを書きなぐっていますので、もし読み進める場合はお気をつけて!
ゲームの定義
ウィキ
→哲学者 ウィトゲンシュタイン:どのようにゲームを定義づけようとしても、必ずその定義から外れてしまうような「ゲーム(とみなされる活動)」があると述べ、しかしそれでもなお、ゲームと呼ばれるものには一定の類似点(家族的類似性)によってゆるやかにまとまっていると主張。
→哲学者 カイヨワ:楽しみのために行なわれること、時間と場所が区切られていること、勝敗が不確定であること、何かを生産するものではないこと、ルールに支配されること、現実の活動から意識的に切り離されていることをゲームの参加者が知っていること
→ゲームデザイナー コスティキャン:充分な情報の下に行われた意思決定 (decision making)をもって、プレイヤーが与えられた資源を管理 (managing resources)しつつ自ら参加し、立ちはだかる障害物を乗り越えて目標 (goals)達成を目指すもの
→エニックス元社員 JUNZO:「目的」「ルール」「敵」をゲームの三大要素だとした。そして、あるものに、このゲームの三大要素(「目的」「ルール」「敵」)を導入することにより、そのあるものをゲーム化できる、というゲーム化理論を考案した。
哲学者が対象としている「ゲーム」とゲームデザイナーが対象としている「ゲーム」とはちょっと違うかもしれなくて、哲学者はより本質的な意味でのゲームについて語るかもしれない。今自分が考えたいのは、ゲームの本質なので、哲学者的な視点なのかなと思う。
そういうわけで、カイヨワの言う各条件を軸にしてみる。
・楽しみのために行なわれること
楽しむための工夫ともいえるかもしれない。けど、だとすると楽しいとは何かっていう新たな問題が見つかる。個人的には「楽しい」という感情は何らかの欲求が満たされたことのサインのように思っている。
ちなみに欲求の分類を過去に調べて整理したのがこちら。
欠乏を満たしたい、堆積したものを放出したい、障害の回避、獲得欲求、保持・保存欲求、秩序・構成欲求、優越欲求、達成欲求、承認欲求、顕示欲求、不可侵欲求、屈辱回避欲求、防衛欲求(正当化)、中和欲求、支配・服従欲求、同化欲求、自律欲求、対立欲求、攻撃欲求、屈従欲求、非難回避欲求、親和欲求、排除欲求、養護欲求、救護欲求、遊戯欲求、認知欲求、理解・証明欲求、他者認知欲求
欲求が満たされることと楽しいことはイコールではないかもしれないけれど、直接的・間接的には関連しているとおもう。
・時間と場所が区切られていること
これはよくわからないのでパス。
・勝敗が不確定であること
これは、誰にでも勝利と敗北の可能性があるよってことかな?
・何かを生産するものではないこと
おそらく現実的な何かを生産するための行動ではないよってことかと。
・ルールに支配されること
ルールがあることも要素の一つ。時間と場所の区切りももしかすると概念的には同じようなことを言っているのかも?欲求を満たす(≒楽しむ)には対象とする欲求の想定とそれが満たされる過程を追体験できる仕組み=ルールが必要と理解した!
・現実の活動から意識的に切り離されていることをゲームの参加者が知っていること
暗黙のルール的な位置づけでしょうか。
一部ピンとこないけど、まとめると
ゲームは「楽しい」を故意に発生させる装置みたいなもので、仕組みとしては「何らかの欲求を刺激し、それを満たす」という構造を持ったものということになるのかな。
例えば将棋なら
獲得欲求(相手の駒を取る)、優越欲求や顕示欲求(これは特定のゲームで強くなりたい根拠となっている欲求かも)、達成欲求(相手の王を取る)、対立欲求、攻撃欲求、排除欲求あたりが刺激されそう。
ちなみに「相手が尊敬できる人だと負けても楽しめる」というのは、もしかすると屈従欲求あたりが満たされているのかも?おそらく自分が嫌いな相手に負けたら楽しくないだろうから。将棋というゲームの中で自分なりの目標を設定した場合、その目標が達成されていれば部分的に達成欲求が満たせるので、少し楽しめる可能性もあるかな。
ゲーム自体の特性として、基本的に達成欲求や自律欲求の刺激と充足はありそう。逆にボードゲームが楽しくない・あわないと感じる場合、障害の回避(損失を抑えていくようなゲーム)、保持・保存欲求(ゲーム内で資源を奪われるようなもの)、秩序・構成欲求(妨害により自分の場が乱される)、優越欲求(勝てないゲーム)、達成欲求(妨害による失敗)、屈辱回避欲求(バカにされる)、自律欲求(自分のプレイを否定される)、親和欲求(コミュニケーショントラブル)あたりが関連していそう。
おそらく個人個人で満たしたい欲求の優先順位が違うはずだから、ゲームごとに満たされる欲求を分類すると個々人に合うゲームを見つけやすいかも。
欲求分析とボドゲ検索を結び付けたら、ボードゲームソムリエができるな・・というか、意識的にせよ、無意識的にせよそういうことをしている人はいると思う。
ボードゲームを作る時に、どの欲求をターゲットにするかという点をとがらせるのはアリかもなぁ。
ということは、ボードゲームを作る流れに落とし込むと、
①ゲームの素案を思いつく
②その案がどの欲求を満たす仕組みなのかを考える
③とことんその欲求を強く満たせる形を想像する(欲求充足装置)
④欲求充足装置の最小単位を考える。
⑤その他いくつかの欲求を満たす仕組みを組み合わせる。
みたいなことになるのかな。
今考えているボードゲームについても欲求の視点から見つめなおしてみるか!
余談
トリックテイキング(トリテ)が、典型的ルールをいじると楽しくなくなる理由が分かった気がする。
トリテを楽しいと感じる場合、無意識的な場合が多いとは思うけど、大きく「達成欲求」と「遊戯欲求」のどちらを満たすことが想定される。マストフォロー、切り札アリ、ビット方式という典型的なルールを想定した場合、後者はカウンティングのような技能はあまり頼らず、手札を見た印象からビットし、それが当たったり外れたりすること自体で遊戯欲求が満たされているのだと思われる。この場合はルールをいじって運要素や不確定要素が増えても楽しめる。むしろ計算が煩雑になったり、勝敗確定までの工程が増えたりすると遊戯欲求を満たすための時間が相対的に減ってしまうので面白くないと感じる(はず)。一方で前者は手札から想定されるパターンとカウンティングを駆使した綿密な計画から結果を想定するという手順を踏むことで、成功時に満たされる達成欲求がより深まるし、優越欲求や支配欲求なども併せて強く満たされることにつながる。そのため、この層は合理的思考で勝率を上げられる仕組みであれば(よほどその人にとって難解性が上がらない限り)多少計算が複雑になったり要素が増えて複雑になっても楽しめるし、むしろある程度の難易度があったほうがやりがいというか、達成した時の喜びが大きくなる(はず)。
なので、そもそもトリテを達成欲求の視点で楽しむことを想定した場合、ルールを変更すればするほど大衆向けではなくなっていく(マストフォローとベットのみで十分高度に精錬されたメカニクスであるため)。せいぜい切り札の決め方や得点の取り方を追加する程度。
そして他方、遊戯欲求の視点で楽しむことを想定した場合は運要素や派手な効果、不確定要素を増やしてゲーム時間も短縮していく方向になるため、達成欲求の満たされる程度は浅くなる・・・うーん、ジレンマ。
そういうわけでトリックテイキングゲームを、トリテが好きなプレイヤーが楽しめる要素を確保したまま大衆向けゲームにしていくのは、構造的にかなりハードルが高い(のだと思う)。
ただ、難しい課題があるとつい挑戦したくなるのが自分の性格でもあるので、「新しいゲームはトリテにしたい」と考えたのは必然かもしれなくて・・・
そんな自分がいる反面、まだ駆け出しの「ゲームを作る人」として、まずは多くの人が楽しめるものにしたい、でも個人的には根本から運要素の強すぎるゲームもあまり好きじゃないんだよなぁっていう矛盾も抱えてたりして・・色々かみ合ってないけど、ちょっとずつ形にしていけたらと思います('ω')ノ
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