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彼氏・彼女を疑問視するヒモ~柔軟性の大事さを考える~

こんにちは。本日は9/1ですが、4月の時の話を必死に思い出しながら
書いているモリオカです。

前回の記事にて、

・プロヒモに必要なのは何だと思いますか

という質問を著者「ふみくん」に投げかけたところ、

根本的に大事なことは”相手によって自分を変える(変えられる)マインド”であり、「ヒモと彼女」の関係性は「彼女ありき」のものである

この考え方の根本には僕自身が一般的な「彼氏彼女の関係性を疑問視」しているという背景もある

というお答えを頂きました。

一般的な「彼氏彼女の関係性を疑問視」している

とはどういうことなのか。

”追い”質問してみたところ、恋愛にありがちな「思い込み」や「とらわれ」といったものに対して、気付きがありましたので、ぜひ共有したい!と思い筆を取らせていただきました。

***

一般的な「彼氏彼女の関係性を疑問視」している、
とは?


百戦錬磨のプロヒモ「ふみくん」の答えは・・・

僕は、いわゆる「彼氏と彼女の関係性」がイマイチピンときていない節があります。

その理由は、まず”付き合う”関係性が極論口約束の上に成り立っているからです。


口約束…

「付き合って下さい」「はい」のあれの事だろうか。

たとえば100回お付き合いし、100回別れる口約束を1時間で行ったカップルが100回付き合ったことになるか?と訊かれればそんなことはありません。
彼氏・彼女の関係が”どこで”・”どのように”成立するのか、を厳密に見ていくと2人の間だけでは発生しないことが分かります。
(仮に世界でその2人しかいないのであれば関係性に名前を付ける必要がないからです)


思考実験のようになってきた。

確かに、1時間の間で100回付き合い100回別れたとしても、トータルで考えれば二人は1回お付き合いして1回別れることと同じだし、それらもあくまで
”口にした”に過ぎない。


極論、世界にたった2人なら、2人で仲良く暮らしていればそれでよく、
「付き合っている」という言葉は要らない。

第三者(社会)が介在した時、その2人の関係性を理解するのに便利だから「付き合う」関係性が生まれるのだと考えています。
『トムとジェシーはダンスパーティーに一緒に来ていたから付き合っている。』
と、二人の関係性を承認するのはあくまで第三者のボブ(社会)なのです。


「付き合っている」という言葉も関係性も、第三者の目線が生むものだ、
ということだろうか。

もちろん、2人で社会に向き合う時、「付き合う」と言う形式自体が大事な場面もたくさんあります。
しかし、であったとしても、2人の間での「付き合う形」や中身はどんなステレオタイプからも自由でいいはずですし、一般的に”良し”とされている「付き合う」型に2人を当てはめるよりも、『あなたがこうだから私はこうする』と言った具合に、付き合い方くらいは2人で探っていくことの方が自然なことのようにも思えます。

2人で社会に向き合う時、「付き合う」と言う形式自体が大事な場面


例えば、妙齢のカップルが「結婚を前提に」お付き合いする、といったとき。
「付き合うけど結婚はしない」は意味は通るが「結婚するけど付き合わない」はそもそも意味も通じない。
「お付き合いしている」状態が結婚までの両者の関係の構築や
心情を落ち着かせる要因となる。


例えば、仲のとても良い2人の間に闖入者がいるようなとき。
闖入者を一番手っ取り早く撃退する方法は「付き合ってるよ」
と宣言してしまうこと。
「付き合ってないよ」などと否定してしまうと少女マンガのように
ややこしい展開になってしまうので、こういう場合は早いとこ「付き合って」しまった方が良い。


「付き合っている」状態は外野(社会)から「とやかく言われない」状態であり、2人にとっても互いが互いにとって”特別”であるということの証として有意義なもの、と言える場合が多いことはたしか。



しかし、プロヒモ「ふみくん」の主張はこれだけでは終わらない。



であったとしても、2人の間での「付き合う形」や中身はどんなステレオタイプからも自由でいいはず

一般的に”良し”とされている「付き合う」型に2人を当てはめるよりも、付き合い方くらいは2人で探っていくことの方が自然



”「記念日には夜景のみえる高級レストラン」に連れていくことのできる甲斐性のある男性”に”引っ張ってもらい、常にリードしてもらう可愛げのある女性”というのはありとあらゆるキラキラした媒体で刷り込まれ、理想として語られることも多いかもしれないが、
「付き合っている」から「クリスマスは必ず一緒に過ごす」「毎日連絡する」「星野リゾートに泊まる」「男性が奢る」……
これらのステレオタイプには、「べき」論が挟まれていることも多く、安易に自分たちにも当てはめてしまうと窮屈に感じる人もいるかもしれない。


2人でパジャマでダラダラ過ごしたりチェーン店のお店でディナーしたりする方が気楽ならそちらを選べばよい。
「女の子には絶対に奢る立場でありたい」と思うならそうすればよい。


究極、付き合い方も”「ヒモと彼女」”という社会的にはややアンタッチャブルに見える関係性でも、
「年上エリート商社マンにとんでもない額の寿司を毎回食べさせてもらう」ような東京カレンダー的関係性でも、
2人の関係性は2人のものなので、2人で構築していけばよいし、お互いにとって無理がないなら何ら問題がない。


「外の目」を意識して「付き合い方」を当てはめてしまうことは
恋愛をイベントという名のチェックリストをこなす事務作業にしてしまったり、
無理があるのにそれを固持して相手に重荷を背負わせてしまったりする危険性をはらみ、不健全なことである。



こんなことを「ふみくん」のお言葉から考えた。



電話会議でも、


恋愛に対して悟っている


と思ったが、


既成の恋愛観にとらわれていない

こともよくよくわかった。


伊達に10年以上プロヒモとして生活していない。



まだまだ掘り下げていくべきですね!
(無理やりなまとめ)

***

恋愛の話で感じた、”世間からの解放”という側面は
この本の主軸となりうる要素なので、続けてお伝えしていければと思います。
それではまた!





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