「ナディア」
私は、どこまでも広がる砂漠にいた。
青い空には薄明の月。
全ての音が止まった感覚がして、呼吸だけが聴こえる。呼吸の音は、自分の息遣いではなく、もっと大きな何かだった。
少し遠くに、建物の瓦礫が見えた。ガラスでできた建物だったのだろうか。
太陽の光でギラギラと輝いている。
砂に足を絡め取られながら、その瓦礫に近づく。
近づいて気づいた。
瓦礫の山は、生きていた。
それは、鋼のような鱗に覆われた竜であった。
呆然と立ち尽くす私の前で、大きな鋼の竜はのそりと起き上がり、私を見下ろす。
竜は鋼の翼を何度か羽ばたかせた。砂が舞い上がる。
ギラつく太陽、青い空、舞い上がる砂と鋼の竜。
何故そう感じるのか不思議なのだが、どこまでも静かな情景だと思った。音がしなかった。
鋼の竜は空へ飛び立とうとしているのだろう、羽ばたきは段々と大きくなり、私は砂嵐に襲われた。
目を瞑って、身体をぎゅうっと縮こませる。
鋼の竜の咆哮が響いた。
気がつくと、私は鬱蒼とした森の中にいた。
蔦に覆われた木々、大きな木、見たことのないカラフルな花々、湿った土、温かな気温、姿の見えない何か動物の鳴き声。
何処もかしこも、濃い生命エネルギーに溢れていて、息が苦しくなった。
水の中に潜っているような気持ちになって、息継ぎをするように、空へ顔を向け深呼吸する。
木々の間から覗く青空に薄明の月を見つけた。
その瞬間、呼吸が楽になった気がしてほっとする。
淡い月は満ちて行く途中で、まだ欠けている。
それが余計私を安心させた。
月と私の間に遮るものはきっと何もなくて、真っ直ぐ糸電話の糸で、ピンと繋がっている感覚があった。
言葉ではないけれど、伝わってくる何かがあった。
それは、とても重大なこの世の真理でもなければ、私にだけ与えられた重要な使命でもなく、ただ何気ない鼻歌のようなものだった。
"ラララ、ルルル、もしもし、ねぇねぇ、明日降る雨は、とある村に虹を架け、それを見た赤ん坊が、嬉しそうに笑うのです、すてき、素敵ね、シャラランね"
やわらく、まあるく、軽やかな鼻歌を、月は私に聴かせる。
意味はないから意味がある。
月の鼻歌が、あまりにも私の胸をくすぐるから、笑って月から目を離したら、糸が緩みプツンと歌が途切れてしまった。
歌が途切れて気づいた。
少し離れた場所に人影がある。
近づいて行くと、自分と同い年くらいの女性が、先程の私と同じように木々の間から覗く空を見上げていた。
彼女は、褐色の肌に、短い黒髪、頭には羽と花で作った冠をのせ、とても簡素な麻の服を身に纏っていた。
とても美しい人だった。
空を見上げる瞳は、この森の何処かにあるに違いない泉のように青く澄んでいる。
彼女も月の歌を聴いているのだろうか。
そんな事を考えていたら、彼女はふっと微笑み、私と目を合わせた。
彼女と目が合った時、確かに月の歌が聴こえた気がした。それは、優しい雨音のように聞こえたし、明け方の静かな海の波音のようにも聞こえた。
月は私たちのことが好きなのだ。
何故かそう思った。
「こんにちは」
彼女の声は、この鬱蒼とした森の中でも、とても澄んで響いた。
「こんにちは」
自分もそう挨拶して、自分と彼女の声はなんだか似ていると思った。
「どうしてここにいるの?」
彼女にそう尋ねられて、そういえば、何故わたしはここに来たのだろうと、自分でも不思議に思った。
「私もよくわからなくて」
「そう」
「でも、多分、」
青空に、銀色の何かが煌めいた。
「、、、月を見上げていたら、気づいたら、ここにいました」
「そうなのね。私もなの」
彼女と一緒な事が、とても嬉しかった。
それで彼女に話してみようと思った。
「月が歌を歌ってくれました」
「歌?」
「はい、とても優しい歌でした」
「貴女は月と会話ができるの?」
「いえ、ただなんとなく、そうではないかなぁと思うのです」
彼女は私に近づき、目の前に立った。
彼女の綺麗な瞳を見るのが恥ずかしくて、私は目線を逸らす。
「その感覚、私もわかる気がするわ。私はあの月を見上げていたら、ここにいるのに、ここにいない感覚がして、それが心地良くてずっと月を見上げていたの」
彼女の足は、力強く地面を踏み締めている。
「ここにいない感覚、、、」
「えぇ、私はそこへ行ったことがないのに、何故か懐かしい気持ちになるの。そこには何もないのに全てがあって、一見寂しそうな情景なのに、今まで見たことがない程、色鮮やかな景色にも見えるの。
でも、全く混乱はしない。ただただ安心する。
私はただ在る。そんな感覚」
彼女の言葉は詩のようだった。
「素敵ですね」
「ね、素敵よね」
少し沈黙があった。
私は勇気を出して彼女の瞳を見つめた。
「あの、この森に、美しい泉はありますか?」
「えぇ、あるわよ。私のお気に入りの場所なの」
「やっぱりそうですか」
「よかったら、泉まで案内するわ」
「ぜひお願いしたいのですけど、あの、その前に、」
私はまた、薄明の月を見ようと空を見上げたが、見えなかった。
「どうしたの?」
「いえ、あの、貴女の名前を教えて頂けませんか?」
私がそう尋ねた瞬間、一瞬だけ、世界が呼吸を止めた気がした。
「ナディアよ」
何もかもが息を殺した世界に、鈴の音が響いた。
「ナディア、、」
「えぇ、そうよ」
この世の重大な秘密を知ってしまったかのように、私の胸は高鳴った。
「貴女の名前は?」
私が名を答えると、ナディアは、何度か私の名を口の中で転がし、にっこり笑った。
私たちはお互いに、この世の秘密を知った仲間になった。
「じゃあ行きましょうか。泉まで案内するわ」
ナディアは当然のように私に手を差し出すので、私はそれをそっと握り、彼女と一緒に歩き出した。
ナディアは森に気に入られているのだろう。
彼女と歩くと、目の前の景色が淡い光に包まれていく。
森は先程までの濃いエネルギーを抑えて、彼女に道を示してくれた。獣すら通らないような道でも、行き先を示す何かがナディアの周りにはあった。
しばらく心地よい沈黙のまま歩いていた。
ナディアの隣にいると、森は私にも優しかった。
呼吸は楽になって、木々の間を通って足元を照らす光は、可愛らしい花々を教えてくれることもあった。
たまに通り過ぎる温かな風は、私たちの髪を優しく撫でてくれた。
「ねぇ、月の歌ってどんな歌なのかしら?」
歌ってみてとナディアは言うけど、あれは聴くというより感じるものな気がする。
メロディーがある気もするけど、聴いた瞬間に忘れてしまうのだ。
そうナディアに伝えると、「じゃあ、歌わなくていいから、どんな情景が思い浮かぶか教えて」と言う。
私が思い浮かんだのは、優しい雨音や、村に架かる虹や、明け方の海の波音だったけれど、それを伝えようと口を開いた時、出てきた言葉は全く違うものだった。
「ナディアです」
「え?」
自分でも驚きながら、でも言葉は止まらなかった。
「月の歌は、ナディアみたいな歌なんです」
そう口に出してみて、それ以上の表現はないと思った。
「私みたいな歌?それって、、、」
ナディアは可笑しそうに笑う。
「とても素敵な歌なのよね?」
「もちろんです。とても美しくて、優しくて、胸が温かくなって、ずっと聴いていたいと思います」
私は、ぎゅうっとナディアの手を、強く優しく握った。
ナディアはまたくすくす笑う。
「ねぇ、それってプロポーズみたいね」
「あっ、ご、ごめんなさい」
思わず勢いで言ってしまった言葉に、自分でも慌ててしまう。
それで、ナディアと繋いでいる手を離そうとした。
「どうして謝るのよ。うれしいわ、ありがとう」
放そうとした手はまた強く握り返される。
自分の顔が赤くなっているのが分かる。
「いつか私にも聴こえるかしら」
「聴こえますよ。だって月は、私たちのことが大好きなんです」
ナディアはずっと笑っている。
「貴女の言葉ってとてもくすぐったいわ」
揶揄われたのかと思って、ナディアの顔を覗くと、彼女はとても優しい目をしていた。
私の胸はとくとくと高鳴る。
「ねぇ、貴女のこともっと知りたいです」
「ありがとう。私も貴女とたくさんお話ししたいわ」
この星の瞬きのような時間が、少しでも長く続きますようにと私は願う。
「さぁ、泉まではもう少しよ」
どこか遠くから、風の唸り声のような音が聞こえた気がした。
何故だか、空を舞う銀色の竜の姿が頭をよぎった。
「ナディア」
そう呼ぶと、彼女は私の顔を見て不思議そうな顔をする。
「ナディア、綺麗だね」
ナディアの青い瞳がきらりと光った。
私たちは手を繋ぎ、美しい泉まで歩くのだ。
青い空の下、薄明の月の下。
***
ナディア
ロシア語で「希望」、
アラビア語で「雨や霧が降って湿っている」「寛大な、気前が良い」という意味がある。
月の女神「ディアナ Diana」のアナグラム。
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